NO6/完

「たまには一緒に食事でもしようか?」
 久しぶりに店に顔を出した、客の倉田はカウンターに座るなり、耳許でこっそり私に言った。
 初めて倉田と会った日以来、私は、彼の席に付いたことがない。いつも必ず、チイママの美香がひとりで付いている。
 後日、カオルがこっそり教えてくれたところによると、どうやら美香は、倉田の”鹿児島の通い妻”らしい……。
 このクラブ『舞』では、個人で遊ぶ客のツケは絶対に厳禁だ。なのに、倉田だけがいつも平気でツケで遊んでいた。しかも、チイママが席に付くという、特別待遇だ。愛人ならそれも当り前か…。
 しかし、九州女は情熱的だと客の誰かがダボラ吹いてる奴がいたけど、美香の倉田への入れ込み方は半端じゃないらしい。
 カオル情報によると、美香は、倉田が店で飲むツケの払いを自分で持っているとか。時には、倉田の名前で東京の倉田の家へ、ザボンやらなんやら鹿児島名産を送っていると言う。
「あ〜ら、美香さんに悪いワ」
 私は、プロのホステスっぽく、媚た声で倉田に言った。
「いや、いいんだ。なんなら美香ちゃんのお許しを貰おうか?」
 お、今夜は余裕じゃん!? 倉田が手で合図をするまでもなく、ボックス席で市会議員の先生方の相手をしていた美香が、スーッと寄ってきた。
「あら、倉田さん。いらっしゃい」
「今、このリンコさんに言ってたんだが、一応チイママの許可を貰おうと思ってね」
「なンごて?」
「今日はなんだか、東京の思い出話をしたくなってね。店が引けてから、リンコさんをちょっと借りたいんだが…」
「リンコさん、ヨカよね?」
「………!」
 美香は、私と倉田の顔を交互に見比べながら、ニコニコと珍しくも優しげに言うではないか。
 日頃、私に怒りの目しか見せない、美香の目元の笑い皺が、今夜はいやにチャーミングだ。
「たまにゃヨカたい。倉田さんは、盆も東京にゃ帰っちょらんもんナ。リンコさんも、たまにゃお客さんに付き合わんネ。東京ン話ばせんネ。あたいも、あん市会議員のシェンシェーたちと、食事に行くとよ」
 ふーん、盆暮れには、必ず東京の実家に帰る倉田が、このお盆に妻子の元に帰ってない…美香も今夜は他の客と付き合いがある…。 
 これってさぁ、私は暇つぶしの相手?
「いいわ、付き合う」
「じゃあ、決まりだ。鮨でも奢ろう」
「倉田さん、東京ンもん同士で話すとはヨカが、遅うなってから、悪さバしちゃ、あたいがゲンコツ喰らわすっどぉ」
 それでも美香は、おどけた口調で倉田にクギを刺す。だが、終始ゴキゲンの様子だ。
 私は私で、先日、パート先で見た週刊誌の一件以来、このところウツウツとするものがあった。
 私としては、この際、何かパーッと気分転換するものが欲しかった。
「でも、あんまり遅くなるのは……」
 私は、居候をしている山口家の、心配する美代子の父の顔が浮かんだ。
「大丈夫だよ、僕は! こんな遠い鹿児島まで来た、東京者同士じゃないか。言わば、お互い鹿児島での戦友だよ」
 何が戦友なのか判らないが、とりあえず私は、谷山の美代子の家に、今夜は少し遅くなるが心配しないようと電話を入れる。
 呑む相手が誰であれ、久しぶりの夜遊びのお誘いには、どこか心弾むものがあった。

「新宿の紀ノ国屋の二階の奥に、ブルックボンドという喫茶店があっただろう。そこで、買った本を見ながら紅茶を飲んで、その後、紀ノ国屋の裏にあるおでんやに寄ってね………。コレが安くて旨い!」
 確かに、東京の話をアレコレするのは楽しい。
 倉田は、常連だった飲み屋の話や、お気に入りの喫茶店や本屋の話など、繰り返し繰り返し”東京”の話をしている。しみじみと、実に嬉しそうだ。
 倉田の話す店には、私の知っている店もあり、それはそれで私にも懐かしく、ふたりして大いに盛り上がった。
 倉田が誘ったお鮨屋は、天文館でも評判がいいというだけあって、鮨ネタも近海で捕れた旬のものばかりで、それはそれは美味しい鮨だ。
 私は、久しぶりにゴージャスな気分になって、なンかすごーく嬉しかった。
 しかし、倉田に鮨を御馳走になってはいるものの、彼が嬉しそうに話す東京の話の端っこからひどく寂しい男の気持ちが伝わってくる。そして、鮨屋を出た後、倉田は、もう一軒だけ行きつけの店に付き合ってくれと言う。
「私はね、二十四時間仕事人間でね、いつも忙しいんだが、酒を飲む時間だけは大切にしてるんだよ。だから、もう一軒だけ、ね?」
 その割には毎晩、必ず店で飲んでるよなぁ、コノおっさん……。
 時間は、もう夜中の三時に近かった。
 私は、鮨屋の冷やで飲んだ日本酒が、じわじわと利き始めていた。
 だが、私には、単身赴任のまま東京の家族に見放された五十男の酔っぱらいを、とてもこの場に棄てる度胸なんて無い。
 それに、なンだか食い逃げみたいで悪い。
 そんなことが頭をかすめ、私は倉田の誘いを断り切れずに、二軒目の店に同行した。
 タクシーで連れていかれた二軒目の店は、葦簾ばりの小さな居酒屋だった。
 そこでも、倉田が繰り返す、東京の話題…。しかし、話す内容は、さっきと違った。
「家内は、根っからの東京っ子でね、幼稚園から短大までエスカレーター式の女の子ばっかりのお嬢さん育ちなんだ。東京以外は人間の住むところじゃないと思い込んでるよ。」
 いつの間にか、自慢か愚痴か判らないような、家族や会社の話題になっている。
「倉田さんんちって、エリート一家なんだ。会社も○○って言えば、すごーく一流じゃないですかぁー」
 酔いで朦朧となりつつも、私も一応、倉田の話題に一生懸命ヨイショする。
「いやー、しかし、鹿児島は気候も食べ物もいいけど、三年も居ると厭きるねえ。私もそろそろ東京に戻りたいんだが、どうしても支社長が私を手放してくれなくてねえ」
 私は、ぼーとなりつつ、彼の話に耳を傾け相づちを打つ。
 酒の酔いと一緒に、まるで底無し沼のような己の寂寥感が、まるで満ち潮の如く、ヒタヒタと心の中に満ちてくる。
「帰る……」
 私は、倉田に唐突に告げた。
「お…じゃ…タクシーで送ってこう」
「いえ、大丈夫、ひとりで帰れるから…」
 いいからいいから…何がいいからなのか知らないが、倉田は私を半ば強引にタクシーへ押し込むと、さっさと乗り込んできた。
「谷山まで…」
 私は運転手に行き先を告げ、チラッと倉田を見る。
 倉田は、タクシーの座席に座り込んだ途端、急に無口になった。先ほどのご機嫌な状態から、暗くてズシンと重苦しい表情だ。
 東京の流れモノ同士が、九州の隅っこの街で、真夜中にタクシーで乗り合わせる、か……。窓の走る景色をボ〜ッと眺めながら、私は酔ったベロベロ頭で、デレ〜と考えていた。
「ちょっと、休んで行こう…」
 へ? 何? なんて言った…? ゲッ! このヒト、目ェ座ってる?
「なぁ……?」
 いきなり倉田の分厚い手が、ブラウスの胸をガバッと掴んできた。
 オイオイ、この手は何だ! オッパイを触るンじゃない!
 私は、ベチッと叩いてその手を払う。それでも倉田の手は、しつこく胸元に伸びてくる。
 馬鹿ッ! スカートの中に手を入れようとすンじゃねーヨ!
「美香さんに言いつけますよ!」
 この手は何だ、この手はッ! 
 倉田は、私のブラウスのボタンを外しにかかってくる。倉田がボタンを外す側から、私は必死でボタンをはめていく。
「倉田さん…美香さんが…!」
 私の声は、もう哀願に近い……。
「フン! 美香のヤツ、古女房ヅラしやがって…田舎モンが!」
 何を思い出したのか、焦点の定らまない目をした倉田は、吐き棄てるようにそこだけハッキリと言い切った。
 倉田ーッ! そこまで言うか、おまえってヤツぁー!
「フンッ、よかぶっせぇッ!」
 私は、倉田にアノ言葉を叩きつけ、ついでに平手で力を込めて思いっきりビンタを喰らわせた。
 倉田は、おぉー、と小さく呻いたまま座席から動かない。
 そこにはもう、東京を懐かしむ五十男の寂しさなどは無く、酒焼けしたただの酔っぱらいが、スケベったらしくヘロヘロとのびているだけの姿だった。
「運転手さん、ここで止めて! 止めて下さいッ!」
 タクシーが急停車した途端、私は運転席の後ろの手動ドアを開け、勢いよく飛び出した。
 対向車が来ても知ったこっちゃない、こっちは酔ってンだ。コワイものなんかあるもんけーッ!
 霞がかかった酔いの中、降りたあたりを見回しても、私には元々が土地勘なんてナイ。当然のことながらどこがどこだか判らない。
山があって、大きな道があって、安っぽいネオンがチカチカしたラブホテルが、やたら立ち並んでいる。
 ホテル帰りの客待ち状態なのか、空車の赤い札を立ててたタクシーが、道いっぱいに何台も駐車している。
……ここは、どこ?
 美代子から借りたシルクのブラウスは、はだけたまま、スカートからはみ出てる。クルミボタンが二つ、いつの間にか弾け飛んでいる。
 朝の光が、遠くの山を照らしていた。腕時計は、もう朝の五時を指している。
 私は、その場で素早く身なりを整えると、近くのタクシーに乗り込み、行き先を告げ、無言のままで窓の外を眺める。
 五分も走った頃、見慣れた景色にぶつかった。それは、不意に、まったく不意に窓いっぱいに全貌が見えた。
 桜島は、朝焼けに照らされ真っ赤な姿でそこに居た。
 ここから鈍行に乗っても、熊本までは三時間。私の田舎には、這ってでも歩いてでも行ける距離なンだ……。
 酔眼朦朧のまま朝の桜島を眺めながら、そんなことをぼんやり考えていたら、走馬燈のように、子供時代を過ごした風景が、突然頭の中で廻りだす。
 朝早く始まる夏休みのラジオ体操。それよりもっと早起きした日、やっぱり山からお日様がパーッと輝いてた。
 そんな日は、なんかいいことがありそうで、一日中ワクワクしてたっけなぁ……。
 ラジオ体操の帰り道、男の子達は、カボチャの花にミツバチを封じ込め得意がっていたっけ。女の子達も、朝顔の花を摘んでは蜜を舐めたりしてた……。
 薄く産毛をつけたカボチャの花の黄色や、青や赤紫の朝顔の鮮やかさ。そして、夏の朝の、澄んだ空気の甘さまでもが、臨場感もって溢れるように鼻腔の奥で甦る。
 帰りたい、でももう帰れない距離なんだ。
 馬鹿だなぁ。熊本にも東京にも、もうおうちなんて無いんだよ、リンコさん。
 きっと、私のおうちって、あのお日様より遠いよね。
ーーあたし、何してンだろう……。
 忙しくても楽しかった出版社勤め。クセの強い漫画家は多かったけど、描き手と担当の締め切り攻防線は、お互い楽しかったネ。
 ジャズ屋と一緒に遊んでたとき、ジャズ屋仲間のセッションは、商売ヌキでスイングしてたネ。
 私、イベント屋の才能はなかったけど、みんなは気のイイ貧乏仲間。八王子の山の中、夜中にこっそり畑で盗んだ大きな白菜や大根、みんなで食べて美味しかったネ。
 あの子は…あの子は、もう小学一年生なのよ!
 突然私は、東京に置き去りにしてきた、自分の子供を思い出した。
 いや、いつもいつも、私は、忘れたフリをしていただけだ。
 イヤなことはぜーんぶ、忘れたフリをしてただけだ。ニワトリ頭だと自分で自分に言い利かせていただけだ。
 私のおうちは、ある。
 私の田舎は、ある。
 私のおうちは、私がいちばん好きな人のいるところ、私の田舎は、私がいちばん好きな人の住んでいるところ。
 もう、逃げちゃいけないンだよ、倫子! 
 このまま子供に会えなくっても、同じ東京なら、地べたもつながってるじゃない!
 私は自分の心の中を、そうっと覗き込んでみる。
 ポカーンと大きく穴の空いた心の中には、いつものよう風が吹き、桜島が降らす火山灰のような砂が、淋しい淋しいと小さく呟きながら、砂時計の砂のようにサラサラと流れている。
 そのサラサラした感覚が、私には奇妙に心地よく思えて、それが少し哀しかった。
 美代子から借りたブラウスのボタンが、さっき慌てて留めたせいで、かけ違えになっている。
 心のボタンのかけ違えなんて、人生途上にゃ良くあることさ。
 東京に帰ろう!
 借金がなんぼのものじゃ! ナイものはナイ、何も無いってことは、これからいっぱいあるってことじゃないの、ネ、倫子さん!
「よ〜し、帰るぞッ!」
「はあ?」
 タクシー運転手の、間延びした声がした 。
 知らないうち、声に出していた私は、ごまかすように、何事もなかった声で、行き先の細かい指示を与える。
「いえ、何でも。…あ、運転手さん、電停のほうに曲がって…」
 私は再び振り返る。
 桜島は、後部座席の窓から朝日で赤く輝いたまま、遠くに見えた。

                                
【おわり】