NO.1.2.3.4.5.6

ーーよかぶっせ、か……。
 私は、台所で夕飯の支度をしながら、何となく、昨夜の美香の言葉を心の中で思い返していた。
 美香は、鹿児島から一歩も出たことがないって言ってたけど、東京に憧れたことなかったんだろうか。一度は都会に出てみよう、とは思わなかったんだろうか。
 まな板の上で、汁物の吸い口にする細ネギを切る手が止まる。
 美香は、何かというと田舎モンってへりくだったように言ってるけど、田舎コンプレックスってあるのかなぁ……。その割には、よそ者の私に対する態度に、地元モンの優越感があったなー……。
 でも、ここだって結構都会だし、美香には帰る家だってあるし、いーじゃん。
 私なんか、帰るうちなんて無いンだぞぉ。田舎だって、もう無いンだからぁ。
「倫子、智美がまた何か口に入れた!」
 背後から突然、美代子の鋭い声が飛んできた。彼女は、入浴する足腰の弱い父親の介添えの途中だった。 
 へ? 何……?
 何気無く台所を覗き、智美を見て、驚いた様子だ。
 六ヵ月の赤ん坊の智美は、台所で夕食の支度をしている私の足元でおとなしく遊んでいたはずだけど……。
 見ると、床でお座りしてたはずの赤ん坊はいつの間にか、両方のホッペタをプッと膨らませ、目を白黒させている。
「え? あ、ホントだッ! ペエーッして、ペエーッ!」
 慌てて指を赤ん坊の口に指を突っ込むと、ダシ昆布がズルズル手品のように、長いまま出てくる。
 ハイハイがちょっとできるようにになったと思ったら、まったく油断もスキもならない子だ。
 十五センチほどの細いダシ昆布が喉の奥まで詰まっていて苦しかったらしく、智美はギャーッと泣き出した。涙と涎の大洪水だ。
ーー被害者ヅラして泣くンじゃない! 自分でやったろー?
 ん? このセリフって、今の私自身への言葉か?
「美代子、あたし、この子オンブするよ」
 私は、煮物の下ごしらえの途中だったが、大声で泣く智美を抱き上げて、いつものように背中にくくりつけた。
 智美は私の背中にくくられると、いつだっておとなしく眠っていたのに、この頃大きくなったせいか、背中でモゾモゾと動いて、赤ちゃん言葉で一丁前に文句を言う。
 お姉ちゃんの恵美が、私のエプロンの裾を引っ張って、
「ねえ〜…リンコちゃん、読んでくだしゃいよ〜」と、絵本を抱えて甘えてくる。
「後でネ、後で…」
 煮干しのダシで煮えたぎった鍋の前に、私は慌てて戻るーー。
 ふと時間を振り返ると、この山口家の居候生活は、もう四ヵ月目が過ぎようとしている。
 山口家では、美代子も美代子の両親も、居候になったその日から、私を家族同様の扱いをしてくれている。
 お蔭様で、私は私で昔っからこの山口家の娘であるが如く、すっかりこの家の生活サイクルに馴染んでしまった。
 もしかして私は、根がサバイバルなヤツかも知れない…。
 ま、そんなわけで、私は、夜のアルバイトとは別に、昼間は昼間で結構忙しい。
 美代子の母親が勤めに出た後は、美代子と私で、家事一切を共同作業にしている。
 病人である父親を美代子が看ている間は、子供たちを私が担当…と、言っても、単なる遊び相手…。
ま、私は乳母のようなものだ。
 そんな平凡な日常生活は、東京にいた頃と比べて、今の私にとって至福の時に思える。
 家の中の雑用なんてやっていると、あっという間に一日が経ち、子供を相手にしていると信じられないほどの日にちが過ぎていく。
 私は、夕食の支度を終えた後、夜のアルバイトへ行く準備をし、美代子の母親が勤めから帰ってくる前に出かける。
 私は、店に出勤するまでのその時間帯に、与えられた部屋から出ないようにしていた。
 一度だけ美代子の娘に、突然部屋に入って来られたことがあった。
 なんせ、ホレ、一応私はホステスじゃない? そこはやっぱり夜の蝶らしく、ケバい化粧にケバいファッション…。
 夜の出勤前の私の姿を見て、赤やピンクの原色が大好きな、四歳になった恵美は目をパチクリさせて、
「まあキレー!お姫様みたーい」と惜しみない賛美をくれた。
 だが、その後、美代子の父親にソレを報告され、美代子とふたり、私は、父親をごまかすために大いに困った。
 それよりも何よりも、昔堅気の美代子の父親が、こんな私の格好に腰を抜かすかも知れない。
 ……と言うより、娘分として扱ってもらっている身としては、哀しむ父親の顔を見たくなかった。
 私は美代子と口裏を合わせて、美代子の両親には、クラブ勤めでもクローク担当だと、さも一流ホテルのクロークのように吹聴していたのだ。
 なのにケバい私の格好を見れば、いっぺんに嘘がバレてしまう恐れがあった。
 と言うこともあって、私は、夜帰った時も家族を絶対に起こさないよう、合鍵で玄関を開ける音にも、そりゃもう神経を遣っている。
 で、肝心な借金の返済総額には程遠い。
 それでも私はチビチビと返済している。
 返済完納日なんていつになることやら、そのことを考えると、頭クラクラ目の前チカチカ…。だから、何も考えない。今は、ひたすら働くだけ……。
 昼間、山口家の乳母。夜、天文館のホステス…。
 ま、子供とおっさんの違いはあるけれど、昼間も夜も、子守りすることには変わンないヨ……と、思わなきゃやってらンないよォ、苦手なホステスなんてさッ!
 私は、昼間、臨時アルバイトで小遣い稼ぎをすることもある。
 それは、パートのパート…つまり、パートの代理だ。
 美代子の中学時代の同級生が、西駅の路地裏で、小さなカレー屋のパートをやっていて、やむなくパートを休む時など、私がそのパートの代理で出かけたりする。
 で、私はパートのパートってわけだ。
 カレー屋のパートとひとことに言っても、これが結構気を遣う。
 三十代の脱サラ夫婦がやっているこのカレー屋は、なかなか繁盛している。昼飯時など、カウンターだけの狭い店内は、客の行列が出来て、ちょっとした戦場騒ぎだ。
 ただでさえ忙しいのに、店主の脱サラおっさんは、口も忙しい。
「御飯はちゃんと計ってッ! お客様に向かってカレーは左ッ、御飯は右ッ! 御飯の盛り付けはふっくらとッ! サッと片付けて、次の水を出すッ! …そうじゃない…! …ナンタラカンタラ……」
と、いう具合で、いっときも黙っちゃいない。
 で、私が間違ってるかというと間違っちゃいない。テキは仕切りたいダケ。
 一介のサラリーマンから、狭い店でも一国一城の主…。アレコレと、たった一人のパートの雇い人のやることに口を挟む。
 商売熱心ってこともあるけど、”オレはオーナーだ!”って、要は、経営者としての己を確認したいのネ。
 ま、でも、今の私には、大切な臨時収入の職場…。
 あんまり口喧しいときは、一時間一回怒られて時給なんぼの世界なのサ…と、ひたすら我と我が身に言い利かせることにしている。
 だが、そのお小言を毎回客の前でやられると、さすがの私でも、ノー天気なフリしながらドッと落ち込む。
 しかも、そんなドドメ色な心情の日に限り、日頃気が付きもしなかったものが、やたらと目に入る。
 パートの休憩時間に、店に置いてあった芸能雑誌で見つけた新曲の小さな広告…。
 そこには、元凶・私の借金の元…イベント屋をやったときの仲間たちが、作詞作曲で名を連ねているメジャー広告……。
 ヨカッタネ…頭では祝福の言葉を言ってみるものの、私の心は複雑、千々に乱れる。
 ウ〜ン……気分を変えてと、他の週刊誌を手に取って眺め、私は再びゲッとなる。
 昔、机を並べていた、かつての同僚のアップの顔……。編集者から転身し、ヒットメーカーの作詞家で脚光浴びている、彼女の特集グラビア記事を、私は見つけてしまった。
 彼女は、今話題の流行作詞家で、都会のカルチュアな香りに包まれて、とっても人生フェミニンね。
 私は、蒸発寸前の都落ちのパートで、鹿児島のカレーの香りに包まれて、とっても人生スバイシーよ。
 そして、パートの帰り道、私の病んだ神経にとどめを刺すような、街でやたらと目に入るチラシ、ポスターの類……。
ーー夏休みファンサービス! 九州巡回サイン会、漫画家○○○○○先生が○○書店へ…とか、○○○○○先生の大人気漫画『○○』百万部突破!
 それらは全部私が担当して、とぉ〜っても親しくしていた漫画家ばかり。
 夕方が近くなり、いくら陽が落ちたとはいえ鹿児島の夏は暑い。汗は流れっぱなし、灰は降りっぱなし、心は痛みっぱなし。
 ……うーん…鹿児島の夏は、チト辛いぜ。
(つづく)