NO.1.2.3.4.5.6

 実際、私の東京生活は、見事なくらいにズタボロだった。
 高校卒業後、私は、都会人になりたくて九州の片田舎から上京した。
 ラッキーなことに、ひょんなことから出版社にもモグリ込めた。
 23歳で結婚、出産、そして、世間で流行りの共稼ぎする友達夫婦……と、ここまでは良かったンだよな。
 しかし、この先がいけねぇや。
「倫子と同じぐらいに好きな人が出来たんだけど、どうすればいい……?」
ある日突然、百%信じ切っていた亭主に告白され、私は青天の霹靂。
むごいよなァ〜。私に聞くなよォ〜ッ!!
結婚というのは、これからは妻といっても女も自分の仕事を持って経済的に自立しなければならない、と言うのが
彼の持論だった。
幼い頃から鍵っ子だった私の夢は、専業主婦になり、夫や子供たちとちゃぶ台囲んで「家族」するというのが夢
だったが、戸籍筆頭者の亭主にそう言われちゃあ仕方が無い。
働きましたよ、がむしゃらに……。お陰で仕事量は増えていくばかり。家事と育児と徹夜続きの編集仕事、心も体も疲労困憊の日々に、
「仕事が大変そうだし、もっと軽い仕事に移るか、編集を辞めない? このままだと離婚ってことにも……」
またしても、亭主からの突然のお言葉……。
オイオイ、それは無いだろうーッ。
ぶち切れた私は、さっさと一方的に離婚手続きをしてしまった。
 つまり、一つ年上の若い亭主に浮気された後にすったもんだの末、私は、世間の流行でもないのに、早すぎた結婚にありがちなお決まり離婚をやったのだ。
 しかも、女から言い出す離婚など人生最悪な出来事だと言わんばかりに、親を含めた親族ご一同様から私はキッパリした勘当を言い渡された。
 保守的な彼らからして見れば、子供を棄てて来るようなバツイチ女が身内にいることは、世間体もさぞや悪かろうというものだ。
 デモ、ショーガナイヨと、その頃の私はうそぶいていた。
 私からしてみれば、亭主を愛していたから子供を産んだのだし、それが壊れちゃったんなら、愛の象徴である子供は相手に返すだけさ、と、私なりの正当な理屈はあった。
 それに、もし自分が子供を引き取って育てたとしても、子供は、戸籍上親子してるだけ。私と一緒にいるだけで、同じようにチャランポランな、もう一人の自分が出来上がってしまいそうでコワイよ。
 感情直結人間の私としては、せめて子供だけは堅気に育って欲しいとムシの好い考えもあって、半ば強引に元亭主だった男に3歳半の娘を押し付け、体一つで家を飛び出していた。
 離婚するような女は、性格的にどこかカタワなんだと言った人もいたっけ……。
 そうかもしんないね。
 それでも時々、自分の娘と同じような年頃の子を街で見掛けると、私はチクンと痛む心を押さえ、そんなことを思ったりもした。
 しかし、ご多分に漏れず私の場合にも、いつでもどこでも「離婚した女」というレッテルがついてまわった。 若いバツイチ女は、バツイチっていうだけで、世間の好奇な視線を浴びるのだ。
 頑張って男並みに仕事したって、アフター5に酒飲んだって、何かと言えば、好きったらしい目ェしたセクハラ野郎たちは、
『そんなムキに働いて、夜が淋しいンじゃない?』とか、
『女のクセして、肩怒らせてやってるから離婚されるんだよなぁ』…だって!
 ンだとォ〜! バカヤローッ! くそッ、ウットウシイ出版社なんて、辞めてやる。
 子供を手放したバツイチ女にゃ、何もコワイものなんて無いンだからぁー!
 私は、持ち前の短絡思考とおっちょこちょいな行動力で、エイヤッと自分の環境をがらりと変えた。
 そして私は、気の合う数人の仲間と目論み事業と称するものを始めた。
 で、ついでに不倫も始めた。
 何がついでかというと、その時期、朝・昼・晩・真夜中と実にタイミング良く、マメに電話をを寄越す男がいたのだ。
 彼は、ライブハウスで知り合った売れないジャズ屋だったが、愛嬌だけが取柄みたいなおそろしく明るいお喋り男だ。
 私はさっそくその男のお誘いにのった。
 私としては、元亭主がやった浮気感覚ってものを知りたかったのだ。
 コレ、好奇心ってやつですか?
 が、何よりも心のなかに吹く風を静めるものであれば、私には、仕事であろうと不倫であろうと、それは何でもよかった、というのが本音なのかもしれない。
 しかし、事業家ごっこと不倫ごっこを同時進行で始めてはみたものの、ツイていないのか、元々が恋愛や金儲けに才能がないのか、私はそれらをことごとく失敗した。
 ジャズ屋は、常に一定した浮気の周期間隔があるらしく、妻子のほかに、愛人1号、2号、3号といた。
 彼は、本職で売れないぶん暇だったらしく、実に浮気に関してマメだったのだ。
 私の不倫関係は、ジャズ屋を挟んだ女同士の、三角四角の不毛なタッグマッチを展開する日々が続いた。
 ちなみに私は、彼の浮気周期時期の愛人1号? 愛人でも、何人もいるうちの1号だもんね〜と、女の見栄で空威張りしてみても、結局のところ不倫は不倫だし、金が絡まなくても妻子ある男の数いる愛人の一人でしかないことは不名誉な事実なのだ。
 そして、熱しやすく覚めやすい性格ということもあって、私は、修羅場をかいくぐっている最中にその不倫ごっこの馬鹿馬鹿しさにイチ抜けた。
 その頃、時を同じくして、仲間と一緒に始めた事業も、所詮は哀しき素人衆、烏合の衆の集まりで、これまた見事に失敗。
 不倫と事業の失敗……。これで私に残されたものは、空しい人生観とン百万円の借金……。全くなってこったい…なぁーんて嘆いてみても、あとの祭り。
 私は、雑誌やテレビのワイドショーの身の上相談にあるような、女の人生コースとオジサンの人生コースをわずか十年たらずでダイジェストに体験してしまった。
 ここまで堕ちちゃったら、後はアッハッハッとひたすら馬鹿笑いするしかないネ……と、その時、私は実にシミジミ思ったものだ。
 その後の私は、借金返済のために、アルバイトに次ぐアルバイトの毎日。
 なんだか怪しげな新聞の業界記者を手始めに、女バーテンダーにバーのホステス、炉端焼き屋のオネーチャンに麻雀屋のオネーチャン、そして八百屋の売り子に喫茶店のウエートレス……。 アルバイトの種類としてやっていないのは、エッチな風俗関係ぐらいなものだ。
 ナニこれだって売れセンになるような、自慢の美貌と豊満な肉体を持っていなかっただけのこと。
 そして、変な純情ブリッコで、私のちっぽけなプライドが許さなかっただけのことだ。
 だが、いろんなアルバイトをやってはみたものの、所詮はアルバイト。一日十二時間以上働いてみたって残る金は微々たる金額。
 まるで賽の河原で石を積むようなもので、借金は減らずに酒量が増えるばかり。このままいけば、残された道はただ一つ。
 なんと私は三十歳にして、アル中の立派なレゲエのオバチャン…。
 人間ヤメマスカ、オ酒ヤメマスカ?
 気がつきゃ私は、もうすぐ三一歳…。
 おいおい、これって女の厄年でいえば前厄か?
 そんな時、山口美代子が、自暴自棄な私の生活ぶりを見るに見かねて、自分の田舎へ来るようにと勧めてくれたのだ。
 山口美代子は、私の数少ない女友達のなかで唯一仲が良かった。
 彼女は結婚後フリーライターとして独立、子連れのライター稼業をしていたが、二人目の出産のために鹿児島の実家へ帰っていた。
 一人娘の美代子は、父親の看病を名目にして、出産後も亭主と別居状態が続き、二月に生まれたばかりの赤ん坊と三歳になるコブつきで、この半年間ずっと実家に居座っていた。
 そんな美代子の、鹿児島からの申し出は、耐乏生活の私には有り難かった。
 臭いレゲエ生活より、明るい居候生活! 
 子供も捨てた、家庭も捨てた、故郷だって捨てた(捨てられた?)。所詮この世は仮の宿。家庭を築き営んだ東京だって、今となっては、故郷なんかじゃ無いやいッ! 
 こーなりゃ東京トンズラこいて、地方の片田舎で、新たに輝かしい未来へ向かって(ホントか?)、人生巻き直しだ!
 思い立ったら行動も素早い、土壇場にツヨイB型気質。
 こうして私は、鹿児島に住む美代子の家に転がり込んだのだった。
 ところで、その前にまず私の起こした行動は、鹿児島へ行くための資金稼ぎ。
 借金はあっても、私の手元には、その日食うのも困るぐらいに、見事に一文無しだった。
 さっそく私は、一口千円の“都落ちカンパ”を仲間内から募った。それはたちまち、東京・鹿児島間が二往復できるぐらいの金になった。
 これもひとえに、ヒトの不幸を面白がってくれる多くの遊び仲間の友情の篤さと、私は大いに感謝!
 私は、まず、都落ちする覚悟を強く固めるために、鹿児島行きの片道切符を買った。
 そして東京をた発つ前夜、タップリ余った残りの金で、今では手を切って単なる酒呑み友達になったジャズ屋の不倫男と、現在そのジャズ屋と不倫進行中の女子大生と私の三人で、徹夜で酒をかっ喰らった。
 それは、今度いつ東京へ戻れるか判らない、“元故郷・東京”との、別れの宴のつもりだった。
(つづく)