NO.1.2.3.4.5.6

「倫子、同級生の旦那に頼んどいた倫子のバイトね、決まったよ」
「え、悪いねぇ!」
 ある昼下がりのこと、美代子は、縁側に足を投げ出したまま、赤ん坊にお乳を与えていた。
彼女の胸に抱かれた赤ん坊は、小さな手で母親の乳房を掴み、コクッコクッと力強くおっぱいを飲んでいる。
 居候になった三日目の朝、降った初雪がうっすら積もっているかの如く、文字通りあたり一面に灰色の火山灰が積もっていた。
 今年は灰の降るのが早かった、と美代子は言う。
 桜島の火山灰は、季節風の関係で、春から秋にかけて鹿児島市内から谷山市内方面に降るのだとか。 大陸からの黄砂が来て、桜島の灰が降れば、この地方にも本格的な春の季節が訪れるのだそうな。
 夏場に降る桜島の灰は、白い服が灰色になるぐらいで、汗のベタベタした顔に小さな粒の灰がチクチク痛いぐらいに当るのだとか。
 今から覚悟しといたほうがいいよぉ〜…と言って、美代子は、その灰について私を脅かした。
 それでも、谷山市内にある美代子の家から朝な夕なに眺める桜島は、その日その日の時間によって、違った風貌を見せてくれる。
 その桜島の火山灰が絶え間なく降る、鹿児島の日常生活にも慣れ始めた頃、ようやく私の夜の勤めが決まったーー。
「友達の旦那、税理士やってんだけど、たまたまクラブの店なんかも担当してンだって。でも、本当に水商売できる?」
「できる。人間腰据えりゃあ、なんだってできるもんサ。ただ、着てく服が…」
「そンなら大丈夫、あたしに任せて。あたしの服で、ぜーんぶコーディネートしてあげる。あたしのお気に入りの服は、東京で着れても、こっちじゃ派手で、着れないもんばっかしだし…」
「この辺、そんなにウルサイ?」
「まぁ、ね。ここら辺は田舎だから…」
 赤ん坊は、満腹になったのか、ぷはっと口からおっぱいを離すと、縁側の硝子戸越しに差し込む明るい冬の日差しをボワ〜ンと眺めている。
 お乳の白いわっかを口まわりにつけたまま、ピンクの唇は、絶え間なく流れる涎でキラキラ光っている。
 赤ん坊特有の乳臭い匂いが、心を穏やかにしてくれる。
 赤ちゃんって、不思議な存在なンだよね……。
「それよか、酔って絡んでくる客、殴らンでね。倫子って、変に潔癖なトコあるから」
「うん。金イイし、あたし、アレコレ贅沢言ってる立場じゃないもんネ」
 悲惨モードに入りそうな自分自身から話題を反らそうと、私は「このコ、ジグロだね」言ったあとハッとなった。
 シマッタ! コノ女は万年トーストだったンだ。
 日頃から自分の浅黒い肌をいつも気にしてたっけ……。
「そうなのよ、長女の恵美もそうなンけど、この智美はもっと黒くていやになっちゃう」
 美代子は、私の失言に腹を立てる様子もなく、赤ん坊の小さな手を握りながら、タメめ息混じりに言う。
「この子を一ヵ月目の検診に連れてくとき、近所のおばさんに言われちゃった」
「何を?」
「生まれたばかりなのに、いきなり顔から日光浴させちゃダメだよって…。こんな真っ黒に日焼けして、赤ん坊が可愛そうだってサ。まだ一度も日光浴させてなかったのにィ」
「はははは……」
 私は、力無く笑う。
「でも本当に、倫子にできる?」
 美代子は再び元の話題に戻った。
「大丈夫! その店って谷山にあるの?」
「天文館みたいよ」
「天文館って?」
「あとで地図書いてあげる。鹿児島市内で一番に賑やかな繁華街。明日にでも街に出てごらん。新宿なんかにゃ負けるけど、結構イケる街だよ」
「うん!」
 美代子には平気そうに言ったものの、実は、私は夜の商売が大の苦手なのだ。
 酒は飲めるし、強い。会話もまあまあ相手に合わせられるし、時には気の利いた冗談言って相手を喜ばせることだってできる。
 しかし、それは飲む相手と、こちらが対等な場合だけ。これは東京で夜のバイトをした時、骨身に染みて思ったことだ。
 客と店側の人間との差は、カウンターを境に大げさに言えば、カースト制か士農工商の世界。
 客が王候貴族なら、所詮こっちは虫ケラ…。
 高い金を払う客には、完璧なイエスマンになることだ。
 それに、ホステスともなると、バッチリ化粧しなければならない。
 普段からスッピンの私は、面倒だと思ったら、へーきで三日間ぐらい顔洗わない女だ。ましてやスカート履いて、ちゃらちゃらしたアクセサリーで着飾って…なぁんてコト、実は大嫌いダ! 
 ……大嫌いと言うより、もっと正確に言うと、私は女のコビが売れない。
 ま、世間では私のような女を、”ガサツな色気無し”とも言ってるみたいだけど……。
 昔、新宿で美代子と飲んでたとき、酔うと色っぽくなり、とたんに愛想がよくなる美代子を見て、隣りの席の男が卑わいなセリフでナンパ仕掛けてきたことがあった。
 彼女と一緒に呑むときは、そんなこと一度や二度じゃない。
 私は、そのつど美代子に代わって、男を撃退していたのだ。
 いえいえ、モテる美代子が決して羨ましいンじゃなく、単に飲むときは飲む、という私のポリシーがあっただけのこと。いや、ホント!
 そんな調子だから、東京でやってた夜のバイトのときも、客からチップ貰った後、その客に胸を捕まれた瞬間、思いっきり往復ビンタを喰らわした。
 またある時は、客からチークダンスを強要されて渋々フロアに出てみれば、耳許に酒臭い息を吹きかけられ、お尻を撫で回された。
 太腿に客の足が割って入ってきたとき、カッとなった私はすかさずテーブルに戻り、何も言わずに水割りウィスキーを、客の頭からぶっかけた。
 もちろん私は、そのつど、店を即クビになったことは言うまでもない。
 金で雇われた立場を忘れた私は、完全に悪い。でも、イヤなものはイヤだ。そんなことキッパリ威張ってどうすンだと自分でも思うけど、その場では勝手に手が動いちゃうんだもんネ。
 まっ、結局のところ、私は頭も体もカタイってことでしょうか。
 元々私はニワトリ頭。三歩も歩けばすぐ忘れるという、反省もしなけりゃ後悔もしない……もしかしてこのトリ頭、自分の途上人生を、自分自身で穴ボコだらけにしているのかも知れない。
 しかし、今度ばっかりは借金のためダ、私も覚悟を決めよう!
 夜の商売がイヤだナンだって言ったって、バイト時給の高いのは、今の私にトテモ魅力的。なンせ、私は”都落ち”してきた身だもんネ。

「タヌキが八千円、リザーブが一万二千円、テーブルチャージがカウンターで二千円、ボックスが三千円、チャームが……」
  角刈り頭の、五十歳になるというタヌキのような顔したマネージャーは、早口でペラペラまくしたてる。
「あのー…タヌキって?」
 角刈りタヌキおやじの口もとをボーッと眺めていたが、タヌキという意味不明の言葉に、オシボリを一枚ずつ畳んでいた手を休め、私は恐る恐る尋ねた。
「タヌキも知らんとや? オールドじゃっどぉ。東京じゃ、ナンチ言うとっとけ?」
「…オールドのこと? ダルマ…サントリーのダルマって…」
 美代子から借りた慣れないワンピースは、お尻がスースーして妙に寒い。ガードル履いてたって、パンツが落っこちてきそうな気がしてならない。ジャラ〜ンと重くぶら下がったイヤリングで、両方の耳たぶは痛痒い。
 うぅ〜う、身に着けてるもの、全部ひっぱがしたいよー!
「ダルマ? そりゃ半耳じゃっどぉ。ダルマね、へぇ〜」
 あとは質問があればカオルに聞いて、とかなんとか言って、角刈りタヌキおやじはカウンターを離れた。
 カオルと名乗る女の子は、ボックス席に座っていた。まだ二十歳とかで、昼間は事務員をやっていて、会社にも親にも内緒で夜のアルバイトをしているコだ。
 小柄ながらも大きいオッパイが自慢らしく、AV女優でもイケそうな、大胆に胸元をカットした赤いワンピースのプリプリねーちゃんだ。
「東京から来やったとな? 東京ンほうが儲かっとっどがァ?」
 コンパクトの鏡を覗き込み、イーッとした口で真っ赤なルージュを塗りたくながら、横目で私をチラリと見て言う。
「ええ、まあ…いろいろありまして…」
 二十歳とはいえ先輩ホステス、それに私は入店一日目だ。AV風ねーちゃんに、一応ここはおとなしく答える。
「ふーん。ま、判らんことあれば、そン時あたいに聞っぎゃん」
 カオルは化粧することが忙しいらしく、そのまま深く追求してこなかった。
 鹿児島に来て二週間目。
 美代子の同級生の旦那の紹介で、今日は私のクラブホステス勤めの初日目だ。

(つづく)