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第3章 Oh! 患者……
病客という名前の患者さん

患者さんもさまざま (看護婦たちは毎日がドラマチック!?)

■怒りのランボー……上田安子(仮名)28歳の場合

その患者さんは、エレベーター横に貼ってあった標語の紙をビリッと剥ぎ取り、私
のカーディガンの裾をグイッと引っ張ったまま、ヒステリックに叫んだ。
「さあ、声を出しで読んでみなッ! さあッ、早くッ!」
浅黒い顔は怒りで赤黒くなり、ガッと見開き血走った目が憎々しいげだ。
ボサボサ頭のパジャマ姿で、患者さんは車椅子の上からギャンギャン吠える。
ーーまるで、お祭りの夜店にある、ボールを投げるとウォーッと吠える赤鬼みたい
……私は、ついそう思ってしまった……。
コトの発端は、一枚のシップ薬だったーー。

私は、北関東地方でも結構大きな病院で、外科全般の入院病棟で働いている。
43歳になる主婦の広田さんは、赤信号の横断歩道に足を踏み出し、会社員の車に巻
き込まれるという事故で、うちの病院に入院してきた。
広田さんは幸い頭に何も異常もなく、ひどいムチ打ち症状態だった。そして、その
まま入院となった。
ムチ打ち症は時間が立たないと痛みも取れないし、季節の変わり目に人によって痛
みやシビレが残ったりする。
外見なんでもなくても、患者さんが痛いとかシビレがひどいと医師に訴えれば、医
師は、その障害を最小限に取り除く努力をするしかない
患者さんの自己申告の痛みには、強制退院はできない。
広田さんは、入院して2ヵ月半になる。
しかし、この患者さんには、外科病棟全員の看護婦が泣かされていた。とにかく、
広田さんの言動で、誰が一番先にキレるか…看護婦の中でも話題になるぐらいだ。
辛抱強い、アノ付き添いさんですら、「もう、やってらンないわよッ!」と、何人
が替わったことか……。時として、広田さんの理不尽な要求に耐えかね、付き添いさ
んの救いの目が、通りすがりの私や、ほかの看護婦に向けられたことがあった。
ーーゴメンよ。付き添いさん…実は、辞めるあなたは7人目ナノ…・
と、フォローできない付き添いさんに、心の中で何度詫びたことか……。

ここは、看護婦不足でいつも忙しいし、広田さん以上の重症の患者さんが何人もい
る。当然、急変する患者さんからのナースコールが優先することになる。入院患者さ
んたちにも、そのへんの事情については了解してもらっていた。
ところが、コノ広田さんだけは違っていた。
「ナースコール鳴らしてるのに、なぜ私のときはスグ来ないのヨッ!」
「すみません、305号室の患者さんが急変して、そっちにみんな行ってまして…」
ナースコールから5分ほど遅れて行った私に、広田さんはもう怒っていた。
「私だけをみんな特別視で見てるのね。上田さん、私に敵意持ってるでしょう。ほか
の看護婦もそうよ…! 加害者が(事故を起こした会社員のこと)私にお金を払って
くれないから、私にだけサービスがないのよ!」
ーーそんなぁ……! サービスって何よ。看護婦のサービスって何……?
一瞬ムカつくが、いつものコトだと腹立ちを押さえ、私は広田さんに尋ねる。
「あの…。それで、用事はなんでしょう?」
「シップ薬を7〜8枚ばっかし持ってきてよ」
「……事故から何ケ月もたってるし、そんなにたくさんシップ薬貼って利きます?」
「利かないヨ。いいから、早く持ってきてッ!」
「……じゃあ、先生に処方してもらいますね」
私は、広田さん担当の小松医師に渋々、シップ薬の処方を頼みに行った。
「何ぃ〜? また、広田さんなの? もうダメだよ。いくら貼っても効果は同じこと
なんだから、意味ないよ…。痛いとこに一枚貼れば十分なんだからね。ダメダメ!」
とは言うものの、結局、小松医師は、広田さんのベッドまで事情説明に行く。
小松医師がその場を立ち去ったあと、広田さんは私に恨みの目を向けた。
「あんたが言いつけたンだろう……!」

そして、一時間後ーー。
車椅子に乗った広田さんは、真っ赤な顔で怒ったまま、私を標語の貼ってあるとこ
ろまで引っ張って行ったのだ。
標語には、看護婦たちの患者さんに対する看護の心得が書いてある。
人当たり良くしましょう、とか…微笑みはウンヌン…看護はカンヌン……。
この騒ぎで、婦長が駆けつけて来た。
「こいつは、何もしてくれないッ! 看護婦のくせして、なんにも言うことを利いて
くれないンだよッ! ここに書いてある標語なんか嘘っぱちだぁーッ!」
「いったい何をしてほしいのですか?」
困り果てた婦長が尋ねるが、広田さんは興奮状態で言ってることも支離滅裂……!
「こんな標語はデタラメだ! 看護婦は、私にダケ、何もしてくれないッ!」
と、広田さんは、ただコノ言葉を繰り返すだけだった。
そして、翌朝の7時半、広田さんの朝の電話行事が始まる……。
「モシモシ、おまえが金を持ってこないから、病院じゃシップ薬も出してくれないン
だよ! モシモシ、聞いてンのかいッ。何ィー? 会社に行く時間だぁ〜!? 会社な
んか、どーでもいいンだよッ。被害者の家から電話かかってきたから、会社に遅れた
って言えばいいじゃないかッ!」
毎朝この時間になると、ナースステーション横の公衆電話で加害者(今では、もう
被害者!?)へ、大声で怒鳴るコノ患者さんに、看護婦たちはくたびれていた。
ここの病棟看護婦たちは、多かれ少なかれ、広田さんの暴言被害者だ。

「私、広田さんとケンカして、病院辞めさせられても、絶対に後悔しない!」
と言う、若い看護婦もいる始末……。彼女は、点滴の薬の交換でさえも若いというだ
けで、広田さんに頭っから信用されていなかった。
看護婦だけではない、担当の小松医師さえもプッツンしそうになったーー。
「眠れないので、薬をくださいヨ」と言う広田さんに、小松医師が睡眠薬を処方する
と、翌朝、ムスッとふくれたままの広田さんは、小松医師を意地悪そうに見上げ…、
「ちっとも眠れなかった、ホントに利く薬だった? 先生、私をモルモット代わりに
新薬の実験台にしてンじゃないのォ〜?」
日頃から、コノ患者の言動にゲンナリしていた小松医師だったが、さすがこの言葉
には腹を立てて、カッとして言ってしまった。
「もう一回交通事故にあって、頭打てば治るンじゃないかい?」
患者の広田さん、小松医師のこの言葉を根に持って、以来、ずーっと恨んでいる。

ところで、広田さんは、ずっと車椅子生活だ。事故の影響で手足が痛かったり、シ
ビレがひどかったりして、始めのうちはベッドの上で生活していたが、その間、使わ
ない手足の筋力が弱ってしまった。ちょっと歩くだけで足が痛いと、広田さん自ら、
車椅子生活に入ってしまったのだ。
広田さんは、加害者への怒りや憎しみのあまり、幻覚や幻聴すらあったようだ。
やたらヒステリーを起こし、手当たりしだいに看護婦に命令し、気に入らないと怒
鳴る……。彼女は、看護婦たちに、八つ当りを立派に(!?)することで、精神のバラ
ンスを保っていたようだ。

食事中ですら、突然、加害者のことが頭に浮かぶと、食べている途中の食器を床に
投げ捨て、バシッと手に持つ箸を折る広田さんは、
「私が退院する頃、殺人事件が一件、増えてると思うわよ」
と言って、加害者を殺すことを想像し、ニヤリと笑う……。
「いいわよ。退院さえすれば、私達は関係ないから…。とにかくこの病院にいる限り
広田さんには、何も問題起こしてほしくないのよ、あなた!」
ーーとうとう、婦長までがキレそうね……。
それにしても、6人部屋の同室の患者さんたちこそイイ迷惑。さわらぬ神に祟りな
しでも、時には患者さんもたまりかね、彼女に抗議することもある。
ーーいいぞォ〜! ○○さん、もっとやれーッ! 広田をやっつけろーッ!
私達看護婦は、患者さん同士の口ゲンカに困ったフリしながら、実は、片方の患者
さんに拍手喝采、心の中で声援を送っていた。
結局、患者の広田さんは、ムチ打ち症で3ヵ月間病院にいて退院して行った。
退院のきっかけは、
「週末、一度くらい家に帰ってみたいねえ……」
という、広田さんの一言だった。私は広田さんの気が変わらないうちに、即、言う。
「そう? ためしに家に帰ってみますか。すぐ、小松先生に頼んできますネ」
ーーぜひ、ぜひぜひ! そーしてちょーだい。本当はもーいつでも退院できる身体
なのよ、広田さん。このまま、ずっと退院中でも、私、許しちゃうワ!
「でも、大丈夫かねえ……。小松先生から、外泊許可が下りるかねえ?」
「大丈夫ですよー。小松先生もそうおっしゃいますよ」
ーー大丈夫! 万が一、小松先生が渋ったら、私、ねじり伏せてでも外泊許可を取
ってきてあげるわヨ。
こうして、広田さんは土日をかけて家に帰った。いざ帰ってみると、やっぱり我が
家がいいらしく、それがきっかけとなって、2〜3回外泊した後、退院していった。

今思うと、広田さんは、事故加害者の会社員を困らせるため、意地で入院していた
ような気がする……。しかし、もう彼女のような患者には、二度と会いたくない。
その夜、病棟看護婦だけの飲み会があったことは、言うまでもないーー!

■目を背けたくなる患者側の厳しい現実


病院に来る患者さんには、さまざまな人がいる。
ガス自殺未遂で運ばれ、一時は蘇生したものの結局は亡くなってしまった10代の女
の子……。彼女の場合、一応、死因を調べるためにオペ室で解剖するわけだが、もう
顔はむくんだように腫れて青っぽいシミだらけで、生前の10代の女の子だけがもつ、
ハツラツとした輝きの肌など見る面影もなかった。
こんなとき若い看護婦などは、2〜3日食欲不振になる。
同じ自殺未遂でも、こちらは中年の男性。妻に付き添われて運ばれてきたものの、
どこに隠し持っていたのか、妻の目の前で再び農薬を飲んで自殺を計った患者さんも
いる。家庭の中で何があったのか、看護婦としてそんな夫婦を見るのは痛ましい。
あとは野となれ山となれ…と、自殺で死んでいく患者さんはいいかもしれないが、
残された者の気持ちは持って行き場がない……。

そしてこれは、ある地方で起こった現実ーー。
ハワイの新婚旅行から帰って来て、ハネムーンベビーができた夫婦がいた。
しかも2卵性双生児らしく、夫婦はもちろん大喜び! 両家の親たちも初孫とあっ
てはなおさらのこと。大喜びで生まれる日を、まだかまだかと待ち望んでいた。
そして、生まれてきたのは、ふつうの日本人の赤ん坊と、黒人の混血児……。
出産に立ち合った看護婦も、これにはなんとも慰めようもなかった
いずれも看護婦が仕事と割り切るには、つい一人の人間に戻ってしまい、悲惨な気
持ちになり、落ち込んでしまったりする。
しかし、別の意味でも一人の人間に戻り、感情に走ってしまいそうなこともある。

それは、威張って、命令して、看護婦を指名する患者さんを担当する場合ーー。
そんな患者さんは、大学病院の教授の紹介だったり、どっかの会社社長だったり、
どっかの議員だったりする。
彼らは、医師や看護婦に大事にされて当たり前、検査も優先されて当たり前と思い
込んでいる。態度はデカイ、言葉遣いは命令口調……。
治療を受けるために、ひとたび病院に入ったら、偉い人や有名人であろうが、そし
て、浮浪者であろうがコレ皆平等ということが、なぜわからないのか……。
世間で評価されている肩書きが、そのまま病院の中でも通用すると、錯覚する患者
さんがなんと多いことか……。
ーーちょっとォ〜患者さん、世間の常識が、病院の中でまかり通ると思うな〜ッ!
……などと、お腹の中で毒突く看護婦は一人だけじゃないーー。


■人生の終焉に立ち会うとき


ターミナルケアとは、医師にあと数ケ月の命と診断された患者さんに、残された命
に対する医療のことだ。
人間は、生まれてきて、最後に死ぬ……。不治を宣告された患者さんに、看護婦は
自分の考えられる”看護”の中で、どれが最善なのかいつでも必死に模索している。
乳癌が肺に移転した患者さんがいたーー。
まだ若い主婦で、子供も幼かった。ご主人は、仕事帰りの毎日、病院の妻に顔を見
せていた。二人は仲睦まじく、いつも枕もとで長いこと喋っていた。
癌は、だんだんと患者さんの肉体を蝕んでいく……。
ある日のこと、患者さんはいよいよ息が苦しくなり、セデーション(麻薬)をかけ
てほしいと言った。
これは、患者さん自身、楽にはなる。しかし、セデーションをかけたが最後、意識
がなくなり、二度と現実の世界に戻ってこれなくなる。その間、癌はどんどん進行し
結果的に死期を早めることになるのだ。
患者さんは、”死”をそのまま受け入れ穏やかな顔で、静かに言った。
「夫には、最後のお別れをしましたから…もう、いいンです……」
セデーションをかける看護婦は、仕事である立場も忘れ、涙をボロボロ流した。
それからしばらくして、意識のないまま、患者さんは亡くなった……。
たとえば深夜勤務などので、患者さんの急変で亡くなった場合、これはもう仕方の
ないことだ。看護婦は、これまで自分の責任と思ったら、この仕事はやれない。
しかし、この場合の看護婦は、看護に最善を尽くし、何よりも患者さんとその家族
に納得してもらったという、看護婦という役目が全うできた。


困ったやつら……外来編
( 待合室は、一幕劇場!?)


■外来待合室の風景


患者さんには、医師や看護婦との相性があるようだ。
そもそも病気を治すということは、患者さんが医師を信頼していなければ、治るも
のも治らない。

医師は、病名や治療法など、患者さんから尋ねられたらキッチリ答えなければなら
ない。もちろん、現段階でわからなければわからないと答えるべきで、いきなり怒鳴
って患者さんを脅かすなど問題外だ。
患者さんは、一度医師を信頼すると、医師と患者さんの相性抜群、”先生サマの腕
は黄金の腕、出す薬は魔法の薬”…ということになる。

しかし、医師への信頼…いえ、病院との相性(!?)がよすぎるのもコレ問題だ。
「先生、いつものヤツ…ぶっといの一発、やってくれ!」と、診察室に入ってくるな
り、いきなり腕を出す患者さんや、
「とにかく点滴を打ってくれよ。アレが一番利くねえー」
と、何がなんでも点滴という、点滴信仰の患者さんがいる。
点滴といってもブドウ糖だ。医師は、口から入れる食べ物で栄養摂ったほうがいい
と、なんとか食べる気力を持たせようとするが、そんな患者さんに限って、点滴さえ
打てば治ると思い込んでいる。
まァこんなことは、昔から何十年もやっている、田舎や下町の診療所などでよく見
られる風景だ。

診療所の待合室には、その土地の老人ばっかり、お茶飲み感覚で順番を待っている
ことが多い。その順番も、患者さんの間で、シッカリ取り決めがある。
「いやー、ここんとこ血圧が上がってねえ〜…ほれ、薬もこんなダヨ」
「アタシもほれ、血圧に神経痛もあるもんだから…」
「ワシなんか、血圧に神経痛に、最近じゃ腰痛までなっちまってねえー」
という、病気自慢から始まり、薬の種類を競い合い、薬袋の中身を膝にぶちまけて、
お互い医師にもらった薬の店開き。
患者さん同士、相手の薬の量に勝った負けたと、心の中で思ってたりする……!?
病気の話に飽きる頃、今度は嫁の悪口から近所に住むダレソレの悪口。そして最後
に孫の自慢話で、その日の地域老人懇談会はお開きとなるのである。
こんな調子で、いつも待合室が盛況なのは結構なことだが、肝心なホントに具合の
悪い患者さんが来たりすると、常連の患者さんたちは、自分の順番が狂うためか、あ
からさまに迷惑そうな顔をする。

新しい患者に熱があったり、お腹が痛かったりしてもお構いなしに、
「アンタ、どこが悪いの? どこから来たの? なぜ、ココに来たの?」
と、質問の矢を四方八方から浴びせたあげく……、
「ここのセンセーは、本当にいい先生でねえ…アンタ、大丈夫? 顔色が悪いヨ」
と、トテモ心配をしてくれるが、決して急病の患者さんに先を譲ろうとはしない。
ーージジィにババァ、ウルサイぞッ! 声をかけるな、痛いンだから……。
その患者さんの心の罵倒を知ってか知らずか、常連患者さんたちは、新参者に聞く
だけ聞いたらもう興味をなくし、再び自分たちの話題に花を咲かせるのだ。
看護婦は医師の指示で注射を打つが、これも患者さんと看護婦さんの"注射の相性"
”というのがあるから不思議だ。
患者さんの中には、一回で打って痛くないようにしろ…とか、ココが一番注射針が
入るところ…など、看護婦にプレッシャーかけてくる人がいる。看護婦は、そんなと
きほど緊張して失敗してしまうものなのだ。
それでも看護婦は、なんとかリクエストに応えようと、細い血管や太り過ぎでどこ
に血管があるかわからない患者さん相手に大奮闘する。だが一発で決まらず、2〜3
回…いえ、4〜5回注射針を打ち直すことも、たま〜にある。
そんなとき、決まってその患者さんは待合室に戻ったあと、
「いやー、今日の看護婦はヘタだったよ。3回も針いれてよォ」
と、顔見知りの患者さんに訴える。すると、相手も負けじと、自慢っぽく言う。
「いやいや、まだイイよ。オレなんか5回だぜ、5回ッ!」
で、どの看護婦が注射がウマイのヘタの、あの看護婦がいい、この看護婦が一発で
打ってくれるとひとしきり、お喋りをする。結局、注射を打つ看護婦と打たれる患者
さんは相性があるネ、ということで患者さん同士の結論が出て落ち着くのだ。


■軽い人ほど重病人を気取る?


医院の窓から、山田さんのおばあちゃんの姿が見えた。
ーーあ、定刻どおりにいつも来るわねえ、アノおばあちゃん……。
瀬戸内の海を臨む、この内科医院に勤める看護婦のテルコは、国道の向こうにある
信号の前で右を見て左を見て、シャキシャキと歩いてくる山田さんのおばあちゃんを
しばらくボンヤリと眺めていた。とても73歳には見えない元気さだ。
ところが、医院の待合室の扉を開けたとたん、フニャ〜となって元気がなくなる。
「あたしゃ、もうダメだよ。年はとりたくないねえ。血圧は高いし、あっちこっちに
ガタがきてるし……」
山田さんのおばあちゃんは、診察室に入ったらもっと元気がなくなり、医師に弱々
しく訴える。だから、医師も毎回同じセリフで、この患者さんを励ますのだ。
「大丈夫ですよ。薬飲んで食事さえ気を付ければ、血圧も心配ないし、ネ?」
「でも、あたし、もう年ですからねぇ……」
「山田さん、いつ見てもお若いですよ。どう見ても60そこそこ……」
と、看護婦のテルコも医師に合わせ、一生懸命ヨイショするが、
「何言ってンですか、あたしゃもう、身体の調子がホントに悪いンですよォ〜!」
と言いながら、この患者さんは、少し怒った声で”私ハ弱イノ、ワカッテネ”という
哀れっぽい顔を、毎回、医師と看護婦のテルコにむけるのだった。

そのくせ、薬をもらって医院を一歩出たとたん、また元のようにシャキッとなり、
しっかりした足取りで帰って行く。
ーーあれって、いったい何…? 医院に来たからには病気の雰囲気に浸りたいのか
しら…それとも弱々しく見せて、先生や私達に同情してもらって、大事に扱ってほし
いのかしら……?
21歳になったばかりの、この若い看護婦テルコには、山田のおばあちゃんが元気に
帰る後ろ姿を眺めるたびに、いつも不思議でしようがなかったーー。
コノおばあちゃんではないが、医師や看護婦たちに、とにかく、なんでもいいから
同情してもらいたがる患者さんは、結構多い。
「先生、この4〜5日、なんだか食欲がないンですよぅ」
「でも、お元気そうですよ」
と、医師が言うと、60歳になるこの主婦は、身を乗り出して腕を出して再び、
「見てください、ほら、こんなに痩せちゃって…私、癌かもしれない。顔色がとても
悪くなってる気がして……」
と、不満そうに訴える腕は丸太のごとく、むっちりパンパンと太っている。
「大丈夫ですよ、奥さん。顔色はツヤツヤしてて、健康そうですよ」
患者さんを励ますつもりで、看護婦のテルコは言った。とたんに主婦は、ムッとし
た表情で、ギロッと彼女をにらんだ。で、ついテルコのほうも思ってしまう……、
ーーあらあら、オバサン。癌を心配する前に、肥満を心配すればァ〜? どう見て
も、その体重は70キロを軽く越えてるヨ、ダイエットしたらァ〜……。
看護婦の見地からしても、ホントは声を出して言いたいテルコだったーー。

病院に来る患者さんは、気分が弱気になってるぶんだけ、強気に言い張って誰かに
甘えたいのかもしれない。それは、どんな患者さんでも年齢に関係なく、面白いよう
に、皆同じような行動形態を取る。
とにかく患者さんは、命に別状のない軽い病気の人ほど、強気で重病であるがごと
く主張したがるのだーー。

■組長が病院にやってきた日


30歳になる看護婦のカホルは、思うに近頃、患者さんの気質がそれぞれの土地柄で
違うような気がしていたーー。
カホルは看護婦になって9年目。結婚や出産のたびに働く病院も変わり、3回目の
この病院は瀬戸内の海沿いにある、内科・外科の一般的な個人病院だ。
街にいた頃、病院に来る患者さんに注射一本打つとして、もし失敗して打ち直しを
すると、「いいの、大丈夫よ」と、声こそ優しいが、顔は不愉快さモロ出し……服装
も身綺麗でも、ネッチリした雰囲気……。アカぬけた患者さんほど、男・女関係なく
どこか心許せないところがあった。街で看護婦をやっていた当時、元気さだけが取り
柄のカホルとしては、失敗してはいけないと、常に緊張してやっていたものだった。
ところが、漁師町ともなると、街の患者さんとはガラリと雰囲気も変わる。
注射を打つときも、「好きなトコに打てや!」と、洗いざらしの作業着で、潮焼け
した赤銅色の腕をニュッと差し出し、実にサッパリしたものだ。待合室で待つ老人も
喋りは大声で乱暴…一見してコワイが、皆サバサバした患者さんばかり。
ただし…、
「オネーチャン。遅いなァ、まだかッ!」
……というふうに病院の受付窓口で、医療事務の女の子に凄んで見せる患者さんは、
ほとんどヤクザがお仕事の患者さん。それも土地のチンンピラ……。
漁師たちと同じように乱暴で荒い喋り方でも、チンピラには言葉に温か味がない。

この日、病院に診察に来たのは、この土地のヤクザの組長だった。込み合う待合室
には、子分らしき3人のお供に囲まれて、組長が順番を待っていた。
「あんたが言ってヨ」と、受付の女の子たちは、病院で一番明るく元気で大声の出る
看護婦のカホルを前に押し出した。
「す、すいません。順番にやってます。もうちょっと待って…」
「何ぃーッ、待てだとぉーッ?」
言ったカホルに一段と凄むチンピラ……。
「そーです! 順番ですッ!」
負けじと言い返すカホルに、その時、親分の声がかかった。
「バカヤローッ、よさないか、順番待つのはオレだ! すいませんね、看護婦さん」
だいたい、ヤクザは上に行くほど、一般の人には腰が低くなる。親分ともなると、
どっかの社長や議員に見習わせたいぐらいに、態度や言葉遣いは丁寧だ。
ただし、身内の下の者には態度はデカイ。この組長の診察後、チンピラたちは素早
く親分の腕に取りつき、筋肉注射を打った腕を3人がかりで揉んでいた。
しかし、この一件以来、気の強いカホルが気に入ったらしく、親分は通院する期間
ずっと何かしらカホルに話しかけていた。

ある日、夫と一緒に歩いていたカホルは、道でバッタリその親分と出会った。
彼は、誰がみても堂々と貫禄あるヤクザの親分……。その隣には、映画『極道の妻
たち』に出てくるような、美しい女性がピッタリと寄り添っている。
「おう! 久しぶりだなあ。…こちら旦那サン!? あ、どうもいつもお世話になって
おります」
などと気安く声をかけられ、カホルの夫にまで丁寧なあいさつをする。
始めは驚いた夫だったが事情がわかった今、カホルは、患者さんとの交際範囲の広
い妻として、夫から改めて感嘆の目を向けられてしまった。
その後、子連れで買物中のカホルは、スーパーマーケットの店内で、またもやその
親分と遭遇し、親しく声をかけられた。
その時は、親分一人だけ。ただし、ダボシャツ姿の胸元から刺青がチラリ……。
「あのオジチャン、ママの仲良しのお友達? どーして肩にお絵描きしてンの?」
一緒に連れてた3歳の我が子から、無邪気に質問され、うまく説明できない母親の
立場として、
ーー子供と一緒のときだけは、声をかけてほしくないヨォ……。
と、”患者さんに親しまれる看護婦”カホルは、密かに嘆息したーー。

「機械にはさまれたんだ。すぐ、つないでくれヨ!」
ある時、カホルは、いきなり若者から”小指”を手渡されたことがあった。
ーーギェ〜ッ! 人間の指じゃないッ……!
と、最初の頃こそ驚いたものの、今ではすっかり慣れっこに……!?
カホルは、自分の手のひらに”小指”をのせたまま、婦長のところへ持って「婦長! コレ、つないでくれって」と、ポンと手渡すまでになっている。
そんなとき、待合室で待っている患者さんは、必ずと言っていいほど真っ青な顔色
で、手をグルグル巻きにした血だらけタオルの若者……。
明らかに、粋がって小指を落とした10代のチンピラで、しかもヤンキー上がり。
ヤクザでも下っぱの部類だが、その割りには、治療を受ける態度もデカイ。
カホルの勤めるこの病院は、気性の荒い漁師町。チンピラもよく飛び込んで来る。
つないでくれと言われても、小指の細い血管を一本一本つなぐのは、大変に難しい
手術だ。これが、本当に機械にはさまれた”素人”の起こした事故だったら、つなげ
るものならつないであげたいのが人情……。医師のほうだって、最善を尽くす。
しかし、いくら機械ではさまれたと若者が言い張っても、その切り口は、医師の目
から見てもごまかしが利かない。
結局、麻酔をかけたあと、小指の切り口から出ている骨を削り、周りの皮をかぶせ
て4〜5針縫って、オシマイ……。
そんな患者さんは、この病院でも結構多い。
しかし、治療はしたものの、落とした小指はくっつかないとなれば、若者のほとん
どが病院に残して置いていく。
ーーうちの先生は、小指のコレクターじゃないヨ。自分で持って帰れーッ!
……帰るチンピラの後ろ姿を眺めつつ、密かにつぶやく看護婦のカホルだったーー。



困ったやつら……入院編
(パジャマを着れば皆平等…のハズなのに!?)


■入院して来た患者サマ Part.1

わがまま千万の女実業家

「私達は、佐藤さんのお手伝いじゃないンだからネ!」
と、憤慨するのは、信越地方の某総合病院の外科に勤務する、24歳の看護婦ナオミ。
ナオミは、骨折で入院してきたおばあちゃんに対して、ひどく怒っている。
おばあちゃんとは、風呂場でころんで大腿部(太モモ)を骨折し、気楽な一人部屋
の個室がいいという、75歳の佐藤さんという患者さんのことだ。
佐藤さんは、若い頃から女手ひとつで会社を起こし、何十人という従業員を養って
きた女実業家だったらしい。

この患者の佐藤さんが、何につけても言うセリフは、
「私は、ちゃーんと入院費を払ってンですからね」
という言葉だけで、アリガトウとは、まず言わない。
お金持ちらしいが、自分の会社のあとを継がせた養子夫婦は、佐藤さんの入院中、
一度もお見舞いに来なかった。
ナースコールを5分〜10分おきに鳴らす佐藤さんには、看護婦たちも困っていた。
看護婦が急いで駆けつけると、命令口調で、「テッシュを取って!」だの、「喉が
渇いたの、早く水ッ!」だの、「毛布を胸のところまでかけてヨ」だのと、言う。
ちょっと自分で手を出せば済むことなのに、何度も呼び出される看護婦としては、
そのたびに命令口調の佐藤さんの言葉に、ムッとするのも無理もない
ナオミは、忙しい看護婦の身として、ついにたまりかねて佐藤さんに言った。
「佐藤さん、枕もとの横には、テッシュの箱や吸い差しの水が置いてありますから、
毛布もご自分でちょっと引っ張ってくれますか?」
すると、実に心外だと言わんばかりに、佐藤さんから文句が出た。
「あら、私はちゃーんと個室の入院費払ってンですヨ! あなた、お手伝いさんとし
て働くのは、当たり前じゃありませんかッ」
ーーこのババァ〜! 個室にいるからっていう問題じゃないだろー。
ナオミは一瞬カッときたが、お年寄り相手に医療費の内容明細を説明してもと、そ
こはグッとこらえてそのまま引き下がった。
とうとう婦長まで出てきた。婦長が、看護婦とお手伝いさんの違いをいくら説明し
ても、佐藤さんには、納得いかないらしく、ただ不満そうにしているだけだった。
そして、婦長が説明したその日、今度は、佐藤さんが意地になったのか、5分おき
に鳴る彼女からのナースコール……。
お蔭で入院病棟の看護婦全員、家に帰ってからも、ピンポンピンポンと、ナースコ
ールの耳鳴りに悩まされ、これは佐藤さんがリハビリ専門の病院に移るまで続いた。

若い頃からずっと命令することで生きてきた、佐藤さんの人生辞書には、人に頼む
ということや、アリガトウという言葉は、入っていなかったようだ。
ーーあの佐藤さんは、寂しいときに人にどう甘えるのか、本人にも方法がわからな
かったのかもしれない……。
看護婦のナオミは、一人の患者さんから、立て続けにナースコールが鳴ったとき、
ふっと佐藤さんを今でも思い出すーー。


■入院して来た患者サマ Part.2 

全身麻酔で口を塞がれた男


看護婦のモトコは、某大学病院の教授の紹介で、入院して来た患者さんを初めて見
たとき、白ブタみたい…と思ってしまった。
実際、その患者さんを清拭するとき上半身裸にしたら、色白の肥満体に、乳首まで
ピンク…モトコは、思ったとおりの白ブタだったことが、変に面白かった。
教授の紹介だという60代の患者、白ブタ…戸田さんは、先日、右腕の複雑骨折で手
術をしたばっかりだった。

戸田さんは話好きらしく、通りかかった看護婦を捕まえて、よくベラベラと喋る。
話の内容はいつも自慢話から始まり、自慢話で終わる…というより、看護婦のほう
から終わらせるのだ。仕事が途中の看護婦としては、自分の仕事に支障をきたすため
に、戸田さんの話を途中ムリヤリ打ち切って終わらせるのだ。
ーーこんだけのお喋りなら、先生たちもさぞや手術中、うるさかったろうなァ。
仕事の途中、戸田さんに捕まってしまったモトコは、いつもの自慢話にゲンナリと
聞きながら、そう思った。

戸田さんの手術中だった医師は、彼のウルサイ一方的なお喋りに閉口した。
医師たちは手術の途中、彼を麻酔で眠らせて手術を続行したのだ。
で、その自慢話の内容は、壊れたテープレコーダーのようなワンパターンの繰り返
し……。従兄弟が東大の助教授をやってるだの、甥っこが島根大学で講師をやってる
だの、自分の家系はよっぽどスゴイと思っているらしく、自慢タラタラと話すのだ。
そして、自分は某大学病院教授の紹介患者だ、ということを必ず言外に匂わす。
自分は特別患者…そんなミエミエを看護婦に強要する、イヤミな会社社長だった。
ナースステーションでは、始め、手術中ウルサイお喋りのために眠らされた、珍し
い患者さんだと話題になった、が、しばらくすると今度は、戸田さんの自慢話を聞き
たがらない看護婦たちは、なるべく彼のベッドに近寄らないようにしだした。
ある日曜日のこと、戸田さんは、読んだ新聞を片っぱしから床に落としていた。
モトコが拾ってあげようとすると、戸田さんは、
「いいんだいいんだ、明日の朝、うちの家内が来て拾うから」
……などと言う。
ーー信じらンない! 奥さんに対して、なんてゴーマンな白ブタかしら……。
「日曜日なのに、看護婦は勤務が大変だなあ」
珍しくねぎらいの言葉をモトコにかけてきた。
「でも、あんたにゃ、遊んでくれるような男もいないだろうから、それもいいか」
ーーガーン! これって一種のセクハラじゃないの〜ッ!?
患者さんの言葉の暴力対して、言い返せないのが看護婦という仕事の哀しさ。ナオ
ミは悔しさのあまり、ナースステーションに戻ると先輩に訴えた。
「私、あの患者さん、大嫌いッ!」
いつもならそんな言葉をたしなめる先輩も、この時は黙ってうなづくばかり……。

その喋る白ブタ戸田さんに、ふつうの外科手術ではまずできない”床ズレ”が
できた。
外科手術が終わった2〜3日後に、医師は患者さんに動け動けと勧めるものだが、
この患者さん、お喋りの口はよく動かすが、身体自体を動かそうとはしない。
いくら医師や看護婦たちが起きて動くように勧めても、戸田さんは終日ベッドに入
ったまま、歩くとすればせいぜいトイレに立つときぐらいなもの。
で、外科手術でも珍しい、床ズレ患者さんのでき上がり……!?


■笑って…やがて哀しき患者さん


意識が現実世界よりアッチの世界にいる、すっかり枯れたお爺ちゃんが、看護婦を
「オネーチャン、オネーチャン」と呼んだり、手を握ってきたりお尻にタッチするの
は、「ダメよ、メッ!」とか言って、看護婦たちも笑って許してしまう。そんなおじ
いちゃんには、悪意がまったくない。
しかし、50代や60代の男の患者さんがそんなことをすると、看護婦は本気で怒って
しまう。そこには必ずHっぽい悪意があり、いくら冗談と言われても信用できない。

関東地方の某総合病院にある、脳外科病棟に入院していた、患者の吉田さんの場合
は、いったいどっちになるんだろう?
脳外科の入院病棟勤務の、28歳の看護婦ミホは、時々 吉田さんを思い出し、ふと
そんなことを考えるーー。
40歳になる吉田さんは、長年、近くの病院の精神科に精神分裂症で入院していた。
ある日突然、彼は首吊り自殺を図り、ミホのいる病院で緊急手術をしたあと、脳外
科病棟に入院してきた。
「オレは、あそこにいると殺されるから、退院してきたンだ」
吉田さんはそう言ったが、自殺未遂の結果、彼は片マヒになり、オムツをする身と
なってしまった。
しかし、吉田さんの長年の入院中、欲求不満を潜在的にためていた”鍵”は、今度
のことで壊れたらしく、性に関する欲求がタレ流しになってしまった。
「見て、見て!」
「吉田さんッ…! オムツを取っちゃダメッ!」
吉田さんは、看護婦のミホの姿を見つけると、とたんにオムツを広げ、オチンチン
の立っている状態を見せて報告する。そのたびに彼は、ミホからキツク叱られた。
時には、口に出すのも恥ずかしい××××言葉を突然叫んだりすることもある。
ただし、気を付けて見ていると、それはいつも一人の看護婦のときだけ、奇行に走
るようだ。彼は、どうやら”強い女性”…看護婦のミホが、お好みのようだった。

看護婦のミホは、気も強いが涙もろい人情家…。しかし、看護婦という仕事をして
いるときは、常にキリッとした態度の女性だ。
ミホは、吉田さんという患者さんに接するとき、ほかの患者さん以上に、極力、ク
ールで事務的に接するよう心がけた。
ある日、それでも吉田さんは、ミホに言った。
「一回、ヤラセてください。看護婦さんとヤルのが夢だったんです!」
「キャーッ!」ーーバシッ……!!
彼はそう言ったあと、いきなりミホの胸をわしづかみした。気の強い彼女は、反射
的に吉田さんのほっぺたをぶんなぐった。
「私、初めて患者さんを殴ってしまったワ……」
突然のことに、看護婦のミホは興奮しながら、そう言った。
その日、なぜか一日中、吉田さんはおかしかった。
彼には一応の罪悪感はあるようだが、それがフッと途切れてしまったとき、潜在的
に眠っていた願望が態度となって現れてしまうようだった。
当然のことながら、彼は、担当医師に叱られ、婦長に叱られた。そして翌日も、検
温や食事を運ぶ看護婦たちに、「吉田さん、昨日は何したの?」などと、からかわれ
ながらも、それぞれの看護婦たちにお説教をくらっていた。

ところで彼には、80近い年齢の、年とった母親がいる。
母親は、吉田さんを溺愛していたが、こうと決めたら強い母親で、お見舞いに来る
たびに、何かと息子の吉田さんを叱ってばかりいた。
吉田さんも、そんな母親だけにはヨワイようで、いつも叱られるがまま、おとなし
く母親の言うことを聞いていた。
しかし、母親が帰ったあと、必ず吉田さんのナースコールが鳴った。
「オムツを見てください」
「さっきお母さんが、見てたでしょう?」
「ダメです。うちの母親は中途半端ですから、ちゃんとしてくれなかったのです」
「…………」
そういうことにだけは、彼はシッカリしているのだ。
やがて、吉田さんは、この脳外科病棟を退院して、元の病院に戻って行った。
ーー彼は、母親コンプレックスなのかもしれない……。片マヒにのまま、やっぱり
強い女性に会うとオムツを外すのだろうか……? 彼の”強い母親”が亡くなったと
き、彼は、変わらずベッドに寝たままの状態でいるのだろうか?
忙しい看護婦生活の中で、ミホは、彼の世界を、ふと思ってみるときがあるーー。


■強制退院させられた理由 Part.1 
ケチなちんぴらの末路

まず滅多なことで、病院側から患者さんが強制退院させられることはない。
外科の患者さんの中には、自分のベッドの周りに、ラジカセや雑誌類、ゲームセッ
トと、そのまま自宅の部屋さながら再現する人もいる。それは、たいていスキーや、
バイクの事故で骨折した若者が多い。
エネルギーたっぷりの年頃で、内臓の病気でもなく、ただ腕や足の一部を骨折した
だけの患者さんたちだ。
食欲も旺盛なら、好奇心も旺盛。ちょっと元気になると、スケーボー代わりに足を
骨折した者同士が車椅子に乗って、病院の廊下をカーチェイスまがいのことをして、
婦長や看護婦に大目玉食らうのが関の山だ。
しかし、その存在そのものが、迷惑な患者さんもいるーー。

「ほれ、看護婦だったら、ゴムで縛らんで注射をせぇ!」
入ったばかりの若い看護婦を脅しているのは、両足のカカトを骨折した、40歳にな
る、西崎という患者さんだ。困った看護婦の顔を見て、おもしろがっている。
瀬戸内の海沿いにある病院には、ヤクザをお仕事にしている患者さんが多い。彼も
そのヤクザだったーー。
ただし、ヤクザはヤクザでも、一生出世しないようなタイプだ。小柄な身体に貧相
な顔付きで、せっかく全身刺青をしていてもパッとせず、その刺青すら子供の落書き
にしか見えないお粗末さ。周りの人を恐がらせるために、何かあるとその刺青をチラ
つかせ、やたらと大声を出し、ホラを吹いて粋がって見せる。40歳の男とは思えぬ、
まるでヤンキー上がりの10代のチンピラそのものだ。
周りの看護婦や同じ6人部屋の患者さんたちは、そんな彼を見て心の底でバカにし
きっていた。

そもそも、西崎さんの足のカカトの、骨折の原因からして漫画的だ。
彼の骨折は、ケンカではなく、浮気の発覚からなった骨折だ。つまり、彼がよその
女と一緒にいる現場を、彼の女房に踏み込まれ、慌てた彼はそのまま窓の外に飛び出
したところ、そこは2階の窓だった。そして、見事、両足のカカト骨折……。
ヤクザにしては不名誉な骨折だ。

この病院で、同時期に二人のヤクザが隣同士のベッドになったことがあった。しか
も、二人とも刺青者……。この二人、身体を拭くにしても、ベッドの周りにカーテン
を引き、ほかの患者さんたちには、チラリとも刺青を見せなかった。周りの患者さん
を恐がらせないために、彼らは態度も言葉も、最大限に気を遣っていた。
それに比べて、この西崎という患者さんは……。
何かというと周りの患者さんに難クセをつけ嫌がらせを続けて、結局、彼は一ヵ月
ほどで、病院のほうから強制退院させられた。
その一年後、彼は、港で酒に酔ってケンカをして、相手に刺されあっけなく死んだ
というニュースが病院に入ってきた。その時、同情するよりも、その場にいた看護婦
全員、思わず拍手をして喜んでしまった。
患者さんや病院スタッフに迷惑な患者さんは、看護婦もひどく冷淡になれるーー。


■強制退院させられた理由 Part.2 

乱交パーティーの顛末

迷惑患者と迷惑看護婦が手を結んだとき、いったいどうなるか……?
関東地方の某総合病院の、魚心あれば水心……の場合ーー。

27歳になる上村という患者さんが、この病院にしてきたのは、仕事中に鉄板が落ち
てきて、大腿部骨折になったためだった。
彼は仕事中の事故ということで、労災保険と個人の生命保険で、入院費や生活費の
心配もなく、個室に一人、悠々自適(!?)の入院生活を始めて3ヶ月目に入ろうとし
ていた。
「もうすぐクリスマスね」
検温にきたハルミは、看護婦としてペケだが、色気の点で患者さんに人気がある。
「クリスマスかぁ、何か面白いことやりたいけど、この足じゃなあ……」
上村はつまらなそうに言う。彼は個室の入院生活に退屈しきっていた。だいたい、
10代の学生の頃からナンパが趣味、というぐらいに、女遊びが大好きな男だった。
社会人になってからも仕事を適当にやって、ナンパには、一生懸命励んでいた。
今度の入院で、仕事をサボれて、金は入ってくる……。彼にしてみれば、こんな美
味しいコトは、この先の人生でも滅多に味わうこともないかもしれない。
ところが、ナンパしようにも、肝心な身体が動かないときている。
彼はこのところ、一人病室の中で、少々クサッていた。
「ネ、どっか場所借り切って、カラオケパーティーでもやりたいわネ」
ハルミは、上村の肩になれなれしく手をかけて、ベッドで横になっている上村の顔
を覗き込むように見ると、ニコッと笑って見せた。
ーーコイツ、オレに気があるンだなァ……。
ハルミは、上村がこの病院に入院した当初から、胸が大きくて、ちょっとイイ女だ
なあ…と、目をつけていた看護婦だった。
「友達集めて、カラオケパーティーをやろうぜ。ボクがセッティングするよ」
「場所は? それに上村さん、ギブスのままで、まだ動けないじゃない」
「目の前に看護婦さんがいるじゃないか。病院の車椅子で連れててっくれよ」
「そうか! じゃあ、わたし、若い看護婦たちに声をかけてみるわ」
「ボクは、食い物と男を調達するよ」
……こうして、上村とハルミの計画は始まったーー。

ハルミ自身、先天的な男好き。男であれば、パブロフの犬…のように、条件反射で
ごく自然に色気を発散させて、相手を誘い込むところがあった。
現在25歳のハルミは、10代で結婚して、出産後すぐに離婚した経験がある。
離婚理由は、夫という男に飽きた、以前のように夜遊びをしたい……ただ、それだ
けのことだった。
ハルミは、金銭的にも裕福な実家に戻ると、子供を両親に育ててもらい、そのまま
看護婦になった。
現在、看護婦の仕事を続けながら、実家で生活するハルミは、10代の独身時代のこ
ろと、気持ちも、男好きも、まったく変わっていない。
ハルミは、自由奔放に男たちと遊んでいた。妻子持ちのプロパー(薬を病院に卸す
営業マン)や、ハルミの勤める病院の院長とも関係があった。
妻子持ちのプロパーが妻を癌で亡くしたとき、「これでいつでも、彼とは気兼ねな
く遊べるワ」と、同僚の看護婦の前で、うすら笑いを浮かべて言ったことがある。
そのことで、ハルミと数人のベテラン看護婦たちと対立した。ハルミに反感を持つ
彼女たちは、院長に詰め寄った。
「院長、彼女を辞めさせてください。辞めさせないのなら、私達全員が辞めます!」
すると、院長は、婦長とハルミの顔を交互に見ながら言った。
「困ったなァ。看護婦は自分自ら辞めると言わない限り、辞めさせられないよ」
結局、彼女に敵意を抱くベテランの看護婦たちは、院長の態度に憤慨して辞めた。
こんなハルミだから、看護計画よりも、遊びの計画には大乗り気でやってしまう。

そして、クリスマス当日ーー。
病院内の若い看護婦たちには、一週間前からカラオケパーティーの誘いをかけてい
た。22〜23歳の看護婦たち6人が、ハルミの計画にのってきた。
会場は、上村の知り合いの一軒屋。時刻は病院の消灯時間の過ぎた夜の9時半。出
席者はハルミと、こっそり病院を抜け出した患者の上村、そして、日勤の終わった看
護婦6人……男一人に女7人のつもりで、車2台で会場に向かった。
「え…何…これ……約束が違うじゃない!」
会場である上村の知人宅に到着して、若い看護婦の一人が文句を言った。
そこには、新たに若い男たちが6人、10畳ほどのフローリングの部屋で、ハルミた
ち看護婦が来るのを待っていた。
「いやー、いくらボクでも、女7人を相手に歌うのはコワイよ。それに、カラオケっ
て、男も混じって大勢でワイワイ楽しんだほうがいいし、ネ?」
上村がわざとらしく心細げに言うと、その看護婦はちょっと安心したようだった。
約束のカラオケセットは、確かに用意されてあった。
どこかの店で買ってきたらしい寿司や唐揚げなどのオードブルセット、ビールにワ
インにシャンパンまで、テーブルにところ狭しと並べてある。
極め付けは、パーティーレンタル屋から借り出したきたらしく、天井に取りつけた
小さなミラーボール……。
上村の友人と称する男たちは、看護婦たちの緊張した気持ちをほぐすためか、料理
を小皿に取り分けたり、リクエストの曲をセッティングしたりと、実にこまめにクル
クルと動き、軽い冗談を飛ばして、パーティーの場を盛り上げていった。
夜も深まる午前零時が過ぎた頃、アルコールの酔いと、ガンガン鳴るCD音楽で、
若い看護婦たちはボーッとなっていた。
そんな頃合いを見計らっていたように、若い看護婦たち6人と若い男たち6人の目
の前で、ハルミは骨折で動けない上村に、わざと上から抱きついた。そして、いかに
もみんなを刺激するように、二人は悩ましげに抱き合っていく……。
結果、婚約者もいて、結婚を控えていた若い看護婦を除いた残り全員、ハルミと上
村に促される……。かくして乱交パーティーは始まった……。

このまま、全員が口を拭ってさえいれば、このパーティーに参加した者以外、誰も
何も知らないままに終わっていたかもしれない。
 しかし、ただひとり乱交に加わらなかった結婚を控えていた看護婦が、おおそれながら
と院長に訴え出たのだ。
そして、病院内は院長、婦長を始めに、大騒ぎとなってしまった。
これが、世間にバレたら、地方の小さな市とはいえ、ヘタすると週刊誌のスキャン
ダル、病院の評判にも係わってくる一大事! 誰が首謀者なのか、どの看護婦が出席
したのか……?
結果的には、首謀者の上村が、院長に呼び出され、即日、強制退院となったーー。
参加した看護婦たちは全員そのまま。病院側としては、上村を始めとして、男たち
に、ひたすら口外しないよう心で念じるしかなかった。
で、肝心な共犯者であるハルミは、院長や婦長に、何も言われなかった。
実は、院長は、バリバリに仕事のできる院長の片腕の、婦長ともデキていた……!
つまり、院長をハルミと婦長が共有していたのだ。
あれから、3年が過ぎた。病院は相変わらず流行っているし、院長も婦長も医療
現場で忙しく働いている。ハルミは、少しお化粧が濃くなったがものの、相変わらず
色っぽい看護婦として病院にいるーー。