漫画バンザイ!!  
(昭和30年代のお話)




「りんごをかじると血が出ませんか?」というCMが大昔あったが、私の子供時代は、
「漫画を見続けるとバカになりませんか?」と大人たちから言われ続けていた。
漫画はバカになってしまう禁断の悪書……!? しかし、私は、その禁断の漫画が大好きだった。
漫画の世界は、いつでも自分が主人公になれたし、時には、繰り返し読み込んだ作品の中で、
分かっているエピソードに対して、自分が全能の神のように浸れた。
ときめき、笑い、哀しみ、裏切り……いつでもドキドキなれた。
主人公の含蓄ある言葉に感心し、難しい漢字や言葉遣いは、漫画の台詞についた振り仮名で覚えものだ。
いや、大人になり、齢ン十歳を過ぎた今も、やっぱり私は漫画が大好きだ。
ーーーバカでいいもンね〜…。
バカと呼ばれても、今でも漫画は読み続けたい私だ。

当時、貸し本屋の一冊の貸し本代、5円〜10円也。
その一冊を借りるために何時間でも歩いた。
子供の足で片道1時間はかかる貸し本屋へ10円玉を汗ばむほど握り締めて通い続けた。 
資金は、一生懸命拾い集めた空き缶や鉄釘をくず屋さんに売って、掻き集めた20円もあった。
時には母親の財布からくすねたり、お釣りをチョロまかしたこともある。
50円玉や百円札で、気分は大金持ち。
しかし、後でバレたときの母親の怒号やボコボコにされる拳骨の嵐を予測して、
心はピューピュー冷たい風が吹く合羽からげた三度笠の三下やくざ気分……。

それでも貸し本屋へ着くと、そこは子供の私にとって天国だった。
『街』『影』『ひまわり』……どれもこれも面白くて、舐めるように何度も何度も読み返した。
棚という棚にびっしりと並んだ漫画の数に圧倒されながらも、私は本屋の子供に生まれたいと心底思ったりもした。

その頃の同級生たちは、一人一冊、少なくとも子供のいる家なら一家に一誌、必ず漫画月刊誌を買っていた。
アノ子は『りぼん』、コノ子は『少女』というふうに、同級生は、毎月漫画月刊誌を親から買ってもらうのだ。
我が家が貧しかった私には、それがひどく羨ましくてたまらなかった。
その頃、一冊買ってもらうのでも羨ましいのに、少女漫画を月2冊も買ってもらっている子がクラスにひとりいた。
その子は、クラスでもお金持ちの部類に入る子で、結構意地悪な子だった。
でも、発売したての漫画を2誌…付録の漫画をいれたらもっと量があるわけだが、見せてもらうとなると、
私にとってはどんな意地悪な子であろうとも大スポンサー……。
私は、漫画読みたさにその子におべっかを遣って、その子の家にまで遊びに押しかけた。
もちろん、目的は漫画を見せてもらうこと。
出されたおやつに見向きもせず、私はその子と遊ぶわけでもなく、おべっか遣うことも忘れて子供部屋の棚に並んだ漫画に夢中になった。
私のそれまでのおべっか遣いからの豹変振りに、その子からもう帰ってッ!と、邪険に追い返されたことも一度や二度じゃない。

小学校高学年になった私は、毎月買う漫画雑誌欲しさに、新聞配達もしたし、ヤクルト配達もした。
ときには学校近くの雑貨屋で、同級生のお母さんでもある店主に頼み込み、店番のアルバイトもやった。
あれもこれもみぃぃぃんな漫画を見んがためッ。
お母ちゃん、自分で稼ぐンなら漫画買っても良かってゆーたじゃないッ。
どうして『りぼん』『少女』『なかよし』の中から1冊しか買(こ)うたらあからンのね? 
『小学○年生』なら毎月よかの? あれは漫画が面白なかよぉ〜ッ。
『少女ブック』も、最近創刊された『ひとみ』も買いたかよ〜ぉぉぉッ。
ねえ、お母ちゃん、新聞配達とヤクルト配達で貰ったバイト代は? 
残ったお金はお母ちゃんが貯金してやるってゆーたばってん、あのお金、あれからどぎゃんした……?


歩きながら漫画を読むのは得意中の得意。
夢中で漫画を読みふけったまま、目の前の電信柱にぶつかることは、よくあった。
目から火花が出ると漫画に描いてあったのは本当だ。あれは不意打ちの電信柱との衝突だから、実に痛い。
土手から転げ落ちたこともある。
あ、空が舞っている、と思ったのは一瞬で、漫画本を手に、斜めに歩いて土手からまっ逆さまに転げ落ちたのだ。
その癖は未だ治らず、大人になった今もやっぱり歩きながら漫画雑誌を読みふけり、
駅の階段や下りのエスカレーターから、何度も転げ落ちている。

あれは小学3年生の頃だった。
漫画を夢中で読んでいると、クラスの横の席の子が私を小突くので、睨み返すと見慣れない同級生の顔……?
隣のクラスだった。
ある日、また同じように小突かれ、今度はクラスを間違えなかったのにと、あたりを見回すと、授業はとっくに始まっていた。
担任の女の先生が、教壇で腕組みして私を睨んでいる。
白い額に漫画に出てくるような、本当の青筋が立っていた。
クラス全員、起立の姿勢のままだ。
「あなたが気づくまでと、10分間全員立ったまま待っていたのよ。××××ッ!」
先生の怒りの語尾は聞き取れなかった。
次の昼休み時間に、再び漫画を読み始める私に、隣の席の子から
「先生が許すまで漫画禁止って言われたろうがッ」と、強い口調でなじられた。
ーーー私って本当にバカかもンない……。暗い気持ちになった。

漫画禁止を、今の大人のアル中か禁パチ中に犯されるように、漫画禁止の命令に私は苦しんだ。
でも、小心者の私は、ガッコーのセンセの命令は絶対の権力があると信じ、それでもひたすら漫画を読まないように耐えた。
今思い返しても、暗く重い心を抱えた日々だった。
ある日、
「最近、明子さんは、先生のことをよくきいて漫画を読んでいません。
授業でもよく手を挙げるようになりました。みんなで拍手しましょう」
と、小学校3年生の授業中、私はいきなりクラス全員から拍手を浴びた。
嬉しいとか、恥ずかしいとかという気持ちより、これでおおっぴらに漫画が見れると思うと、
そっちの喜びのほうが大きかった。
漫画解禁は、それまでが漫画禁断症状で何を見ても灰色だったから、
その日の風景が256色ぐらいの総天然色が戻ってきたような気がした。


私の漫画大好き病が始まったのは、文字も読めない5歳の頃からだったと思う。
3歳年上の兄と5歳年上の従兄たちが読みふけっていた『少年クラブ』『少年ブック』を手にしたときから、
大げさではなく、私の漫画大好き人生が始まった。
当時、村民1万人以上という村と名前がつくにしては大きい、私の育った土地に某企業の工場が進出していた。
それまで蜜柑作りや野菜作りをしていた、村中のお父さんやお兄さんたちの殆どは、その工場で働きに出た
その働く人たちやその家族のための様々な設備がいくつもあった。
総合病院、生協(のちにスーパーマーケットになった)、小さな図書館、本社から視察にくるお偉いさん用の旅館、
毎週出しものが変わる2本立て邦画の映画館……。

広い敷地のある映画館の裏側には、20畳ほどの宴会用座敷のある二階建ての大きな日本家屋の建物もあった。
そこは、「清流荘」と名前もついていた。
私の祖父母は、その「清流荘」と映画館の住み込み管理人をしていた。
白い割烹気を寝るときまで外したことのないお喋りが大好きな祖母、四角い箱火鉢の前でいつも物静かに座っていた寡黙な祖父。
当時、俄か母子家庭となった私たち兄妹は、いつでも映画館はフリーパスだ。
ただし、客席からではなく、舞台横の幕の隙間から映画スクリーンを眺めるという感じだ。

東映黄金期と呼ばれていた時代のチャンバラ映画。
ミュージカル映画の東宝映画石原の裕ちゃんや小林旭の歌とアクションに痺れた日活映画
観てはならないと祖父母に禁止され、コソコソ観たベッドシーンもふんだんに出てくるメロドラマの松竹映画。
とにかく毎週興行にかかる2本立て3本立て映画を、子供の感性で、消化不良のまま観まくった。
私は、毎回スクリーンに登場するお姫様やかっこいいに〜ちゃんに興奮しまくった。
楽しくて楽しくて、その面白さを感想文にする代わりに、ひたすらコマを割って漫画絵を描いた。
ついでにハッピーエンドで終わったあとのお話の続きも作って描いた。
で、そこに自然と入り込んできたのが漫画の世界で、明けても暮れても漫画一色……。

小学生時代は、漫画も映画も空気のようなもので、どっちも必要なもので、
どっちが欠けても生きていけないと真剣に思い込んでいた。
ところが、大人となった今、私の内で映画が自然消滅する。
そして、私には漫画だけが残っている。漫画バンザイなのだ。