へ戻る次へ→

どんちゃいるどの愉快な夜


四 愛の終着駅

いつしか梅雨も明けてしまい、季節はコンクリートの照り返しと冷房の放射熱の相
乗効果のため、ちょっと耐え難い蒸せ返るような都会の夏になっていました。
私はせっせ、せっせと店通いを続け、半年余りで準常連のポジションを手に入れて、
今は渾名の“バイクさん”で通るようになっていました。
私が週末毎にバイクで近郊の山へとツーリングに出かけることを知り、口が悪いこ
とにかけてはクコちゃんより遥かに上の、開店当初からの常連であるサルノ君が、
「あなた、中年なのに結婚もせずバイクにばかり乗ってるンですか?
少しおかしいンじゃありません?
乗り物を人間の女に替えた方がいいンじゃないですか、バイクさん!」
とからかったのを耳ダンボのコダマさんが聞きとがめ、「これ、なかなかいい渾名
じゃないか。これからあなたを“バイクさん”と呼ぶことにしよう」と鶴の一声を放
ち、私は“バイクさん”にされてしまったのです。
さて、その夜は、店で十年間酷使されてあまり効かなくなったクーラーがようやっ
と効き始めた九時頃、私は店に来たのですが、コダマさんがなにやら難しい顔をして
常連たちと議論しているのに出喰わしました。
キープのボトルを出して自分で水割りを作り、議論に耳を傾けますと、
「愛するというのは、むつかしいものだ」
というコダマさんのボヤきが聞こえてきました。
「何?何を言い出すんだ、唐突に。
さては、コダマさん、又、なにか女の子とトラブったな」
例によって例の如く、ずけずけとクコちゃんが聞き返しますと、
「いや、いろいろ考えてみたンだが、どんなに努力したって、結局女は愛する男の方
へ走って、お店には居つかない。
その事実を思い知らされるたび、空しい気分を味わってしまうンだよ…」
と、珍しく、しんみりした調子で話すものですから、
「コダマさんでも反省することがあるンだ。
たいていの場合、恨みっぽい口調で、店からいなくなった女の子の落度をひと〜つ、
ふた〜つと数え上げては泣き言を並べているンだけどなァ…」
コヌレ君がちょっと感心した風に言うと、
「いや、事実は事実なのさ。
僕が深夜、アパートの前で放心したようになって、彼女の帰りを待っていたのに、
彼女は若いミュージシャンの方へ走っちまいやがった。
音楽をやってる男の方が僕よりかっこいいッてことは分かるけど、でも、なんだッ
てンだよ、糞ッ。
大体、女の子の部屋には最低でもシャワーが付いていなくてはいけないンだ。
僕は、シャチ子を好きになって、ラブレターを持ったまま、明け方まで街中あっち
こっちさ迷い歩いたコリさんの気持ちが、よーく理解できるよ」
と、溜め息をついています。
「なんだ。またフられたのか。いつものことじゃん」
「そういう問題じゃない、クコちゃん。
これは、お店全体の問題なンだぜ。
ひとり、女の子を確保すると、男の常連が毎晩やって来るから店が繁盛するし、僕
も楽しい。だけど、お店としてひとりの女を愛すのはむつかしいことなンだよ。
女の子は愛する男が欲しいんだから、これは矛盾だよなァ…」
と嘆息しています。そこでクコちゃんが、
「矛盾は止揚しなければならない」
と、まぜ返しますと、コダマさんは
「異議なしッ」と例の如くにまぬけな返答をしました。
「結局コダマさんの愛は、お店の名を借りた独占欲の別名じゃないか」
これは、ウンザリ顔したコヌレ君の意見です。
すると、コダマさんは早速この意見に噛みつき、
「独占欲、ていうけど、僕はぜんぜん独占していない。
独占するのはコヌレ君、君の方だ。
黒子は陰で独占する。だけど、いつでも女に逃げられてしまう。
コヌレ君はインポか?」
「コダマさんこそインポだろ。
このまえ、ミホさんに電話したら、そう言ってたぜ」
「なに、ミホさんと電話したッて?
僕は、ミホさんがいなくなったら生きていかれない。ミホさんと浮気する奴がいた
ら、そいつをコロす。でも、ミホさん自身、僕と別れたい、ていうのなら仕方ない。
カネも入れない、夜もいない、それで十年間も母子家庭をやってるンだからなァ…
実は、近頃、ミホさんは僕のことを避けている節がある」
「それは、お酒臭くて太った人が、毎晩のように午前様を繰り返してたら、誰だって
女は嫌になるわよ」
と、マヨさんが感想を述べたら、
「なんだ、マヨ。マヨだって、酒飲むじゃないか。
それに、こんなことが言えるのは、マヨ、おまえが僕の知らない所で、男をとっ替
えひっ替えして試しみた経験があるから、直ぐ意見が言えるンだッ。
マヨ、そうじゃないのか?」
「失礼なこと、言わないでよ。
あたし、ミホさんの気持ちになって言ったンだから……
女なら誰だって、そう思うもの。
それを、コダマさんたら、言うにこと欠いて、あたしのことを淫乱女のように決め
付けるなんて、ひどい侮辱だわ!」
「マヨは淫乱じゃないンだな。
そうか、分かった。ならば、マヨはお店のために尽してくれるンだな」
「そういう言い方はないンじゃない?
あたし、店の女中じゃないわよ。
あたしにだって自尊心がある。なのに、こんな風に人権無視されると、断然、あた
し、あッたまに来ちゃったわ。もう帰るッ」
マヨさんは憤然として、お酒と怒りで顔を真っ赤にしたまま乱暴に店のドアを開け、
外へ飛び出していきました。
店の中に残された男たちは互いに顔を見合わせ、ふぅと溜め息をつき、
「コダマさんは逆上すると、あることないことを何でもかんでも、相手にぶっつけて
言うから相手が怒るんだ。しようがないなァ」
と、ボヤくのでした。
そのとき、マヨさんと入れ替わるようにして、髪の長いうりざね顔の女性がすーっ
と店の中へ滑り込んできました。
常連一同、意表を衝かれ、びっくりしてその女性の方を見ていると、店に来たこと
のある人物のことなら異常なくらい記憶しているコダマさんが、「なんだ、サユリじ
ゃないか」と声を上げました。
「やっぱり皆さん、薄情ね〜。コダマさんしか覚えててくれないンだから…」
「一年半も来てないから、忘れちゃったよ。
ところで、ボダイさんは?」
こう尋ねたのは、コヌレ君です。
「そうだ、サユリ、ボダイとはどうなったンだ?」
このコダマさんの追いうちに、
「あたしはもう結婚してます」
少しもひるむことなくしゃ〜しゃ〜と、この女性は応答しました。
「なに、ボダイと結婚したのか!」
あまりの衝撃に、とち狂った声を挙げ、コダマさんがこう聞き返しますと、
「なに、早トチリしてるの。
あたし、ボダイさんとはなんでもなかったのよ。
前からつきあってた彼氏と正式に結婚しただけだから、勘違いしないでね」
「サユリ、ボダイは、あんたとのことでお店全体に迷惑をかけたから出ていってもら
ったンだ。それだのに、イケしゃ〜しゃ〜とよく平気で、そんな風に言えるな」
さすがにムッとしたのか、コダマさんが詰るような口調でこう言いますと、
「あたし、ボダイさんからよくしてもらったわ。
でも、ボダイさんだってあたしと議論したりすることが楽しかったはずだから、そ
れはそれでフィフティ・フィフティだと思う……
それに、あたし、女としてボダイさんと交際ったことはなくってよ。
皆さん、あの頃、帰国した後のあたしはずーっと処女なのよッて言ってたの、覚え
てらっしゃらない?」
蛙の面に小便です。
じれたコダマさんが、叫びました。
「皆さんなんて、言うな!
僕が知らないことは真実でない。
大体、僕は、あんたと差しで話したことなんてないじゃないか!
いッつもボダイが、あんたを囲い込むようにしてたから、僕じゃ入り込む余地がな
かったンだぞ。
除け者にされたこの僕の、悲しい悲哀を誰が知る!」
すると、今まで話しに割り込めないまま、聞き役に甘んじていたクコちゃんが、
「そうは言うけど、コダマさん、サユリが来る時刻はいつも夜中の十二時頃だったか
ら、それは、コダマさんが沈没寸前の時間に当っていた。
それで、来た早々のサユリに、無理やり憂歌団の『生駒』を歌わせて、それからよ
うやっと二階へ寝に行ってたのが真相だ。
サユリが朝まで店に居て、ボダイさんやムカイさんや俺と、いろいろ議論を斗わせ
ていたことを今、思い出したぜ」
……
女に生まれてよかァったわ
ほんとはいいことないけれど
そ〜れも心で思わなきゃ
生きてはいけないこの私
生駒はかなしいおんな町
……
コダマさんが急に歌い出したので、みんな呆れて口を閉じました。
コダマさんが一番を歌い終わると、「あはははは…」というカン高い笑い声がして、
「愛って結婚したらたちまち干乾びてしまうのよね」
と、サユリさんがほざきました。
「おい、サユリ、おまえ、結婚するまで愛を慈しんだことなンてあるのか!」
いちいち逆手を取られるので、やけくそになってコダマさんが詰問しますと、
「人並みには」
初めての真面目な答えです。
「じゃァ、おまえの人並みの愛ッて何だ」
「もちろん、男女の愛よ」
「そんな陳腐なこと言って、許されると思ってるのか」
「それじゃ、人類愛ッて答えようかしら」
「僕のようなヒューマニストを前にして、よくそんないい加減なことが言えるな」
「いい加減じゃないわよ。
あたし、いっつも東洋哲学の視点から地球について考えてるので、今の地球の危機
のこと、よ〜く理解してるつもりよ」
「僕みたいにちっちゃなプライドを大切に守ってる人間にとって、抽象的な地球愛な
んて切実な問題じゃない。
本当の問題は、ここにいる君と僕たちの間に愛が成立するか、ていうことだ」
「あら、あたし、コダマさんのこと好きよ」
「女はみんなそう言う。でも、ほんとであった試しがない」
不服そうにコダマさんが返事しました。
「コダマさんにとって切実なのは、母性愛だけじゃないの?」
コヌレ君が合いの手を入れると、
「本質的な愛は、もちろん、それだ。
でも、サユリみたいに男を手玉に取るような女に、母性愛などあるわけがない」
この、断定口調のコダマさんに対して、当のサユリさんは、
「あら。あたし、子供が生まれたのよ……」
最後の最後までコダマさんを翻弄し続けましたので、KO寸前のコダマさんは、
「なに、おまえ、子供が生まれたのか……」
かろうじて、こう、おうむ返しのように答えて絶句しました。
「だから、あたしにとって、母性愛は空気のように自然な愛なの」
畳み掛けるようにこう言うと、サユリさんは涼し気な顔をしながらコップのビール
をグッと飲み干し、止めの言葉の余韻を楽しむかのようににっこりと微笑むのでした。

↑ ヒューマニストのコダマ氏が、夜毎に熱く語るもの…それは『愛』!!


五 夜霧のブルース

八月になると店は半月に及ぶ結構長い夏休みに入ります。
丁度その時期に合わせて、奥さんと息子が北海道へ帰省しますので、店主のコダマ
さんはひととき、独身生活に戻って羽を伸ばすことができ、その、はじめの三、四日
は、恒例になっている南の島でのテント生活を店の仲間たちと送って一年間の疲れを
療し、バッテリーが充電された後半の日々は、昼はパチンコ、夜は少し疎遠になって
いる女性とのデート等、なかなか多忙に過ごし、そういう遊興の日々にちょっと飽き
てきた頃、丁度店が再開される時期が来ているといった、ちょっとやそっとのことで
は変更しようのない流れるように自然なスケジュールが組まれているため、それを知
っている常連たちが、ぽつりぽつりと店に集まってくるのです。
(皆さんは不思議に思われるかもしれませんが、このコダマさんという人は、昼は工
場で働いている労働者なのです。
その忙しい労働者がどうしてこんな風に自由に、ふんだんに時間を使って店など経
営できるのか、といいますと、既に彼にはコダマ流サボリ術とでも呼ぶべき秘技が確
立されており、それを手短に言いますと、彼は、大企業の有する労働規律を逆手にと
って有給休暇を目一杯使い切り、その後は、賃金カットすれすれまで休日カードを切
り続け、もう会社側が諦めて…この人だけは例外…と認めるポジションを獲得したの
です)
さて、こうして九月に入ってもまだ暑いある夜のこと、私がいつものように店の扉
を開けて内へ入りますと、早速コダマさんの、
「若者は〈どんちゃ〉のことなど何〜も考えていない」
という嘆きが聞こえてきました。
十時を回っても客が少ない夜なので、ウーロン茶割りのウイスキーを飲みはじめた
コダマさんは、更に言葉を継ぎ、
「僕らが〈どんちゃ〉をはじめたとき、共同体(この単語をコダマさんは『コミュニ
ケ』と発音するのです)として、特に貧しい弱者のコミュニケとしてこの店を開いた
から、地方出身の貧乏な若者がわんさか集まってきたンだけどなァ……」
といってボヤいています。
すると、横で飲んでいたクコちゃんが、
「コダマさんの時代認識は、甘すぎる。
店を始めてから、十年以上も歳月が経ったのに、コダマさんは、時代の変化につい
てまるで無理解じゃないか!
コダマさんが想定するような若者像は、もうとっくの昔に消滅しちまってる。
なのに、いい歳こいて、コダマさん、そいつに全然気付いてないンだからなァ」
と、反論しました。
ところがコダマさんも負けてはいません。
「僕は年齢など考えない。年齢を考えたら負ける」
「年齢じゃなくて、時代について言ってるンだぜ」
「時代は、僕には分からない。
問題は〈どんちゃ〉という共同体がまだ若者を惹きつける力を持っているかどうか、
ということだ。
むかしの若者が年寄りになって、今の若者と共同歩調をとらなくなったから『ドン』
から若者が減ったンだぞ」
と、意外にまともな意見です。
すると、傍で聞いていたコヌレ君が、
「3Kの店に、若者は寄りつかないんだよ」
と、皮肉っぽく言いますと、
「ぼくは横文字がきらいだ。クコちゃん、3Kって何だよ」
「コダマさん、常識ないなァ。
危険、きたない、きつい、ていう三つの単語の頭文字を並べた最近の流行語だぜ」
「僕は朝昼晩働いているから、TVを見る時間がない。朝早く工場へ出かけるから、
新聞を読む暇もない。
クコちゃんみたいな暇人でなければ、そんな変な流行語など覚えられない。
なッ、コヌレ君!」
と、例によって勝手な理屈をこねて、自分の無知を誇っています。
「こんなンだから、女の子が『うれぴー』なんて叫ぶと、腹を立てるンだな。
『うれぴー』ッてことばを当り前に使う世代が発生してるのに、それを知らずに、コ
ダマさんは、自分がバカにされたと勘違いして怒り出す。
相も変わらぬ、アホなおっさんだぜ。
コダマさんは!」
「僕がおっさんなら、クコちゃんだっておっさんだろ。
それに、僕は『うれぴー』ッて言葉そのものを非難した訳じゃない。
あれは全部、カナ子が悪い!」
「カナ子が? へー、何で?」
と、コヌレ君が好奇心を露わにしますと、
「二十歳を越えた女が、何だか分からぬピィピィ語をしゃべくり、店の常連に色目を
使ったから、『おまえ、子供でもないのにそんな変な言い方をするな』と注意したン
だ。
すると、カナ子は『おじぴー、いいじゃまいか』と僕に反抗したので『僕のお店で、
色目を使うな』て命令したら、カナ子はブスッとふくれて来なくなった。
僕は、いじめた訳じゃない。当り前のことを言っただけだ」
そこへ、最近コダマさんの頭の中でプレイボーイの代名詞になっているタツミ君が
入ってきました。
「やあ、タツミ君。
きょうは、いやにスッキリしたいい顔をしてるじゃないか。
さては、何かいいことをしたな」
「コダマさんからそう言われると、なんか当てこすられているようで、嫌だな。
実は夕方、ちょっと泳いできたんだよ、アスレチック・クラブへ行って……」
と、タツミ君が言いかけますと、
「タツミ君も、とうとうブルジョアになっちまったか。
むかし、ばりばりの過激派として鉄パイプを引っ掴み、敵のセクトと乱闘してた左
翼・前衛ともあろう者がこのていたらくだ! 悲しい堕落よのお……」
とんだ言い掛かりをつけています。
この章の初めに触れたことですが、コダマさんは…自分はプロレタリアである。少
なくとも抑圧された労働者階級の一員である…と頑固に信じている人で、その信念に
よって、彼の人生の何割かは確実に支えられているのです。
「何をピント外れなことをヌかすか!
この、さんたましゃせいどー、のおっさんは!」
入ってくるなり、ビーンボールをぶっつけられ、酒を飲む間もあらばこそ、防戦に
立たされ、こう切り返したタツミ君に、
「えッ、な〜に?
その、さんたましゃせいどー、とかなんとかいう言葉は?」
店の奥で飲んでいたナツメちゃんが、びっくりして質問しました。
「ナツメちゃん、君、何かヤらしいことを想像しなかった?」
と、スケベそうな声で、クコちゃんが鎌をかけますと、ナツメちゃんはぽっと頬を
紅らめて、
「コンパニオンの仕事をしてるとォ、タツミさんみたく中年の変なおじさんが、直ぐ
ヤらしい質問をしてくるので、つい……」
と、恥かしそうです。
「“にこたましゃせいどー”より強そうに響く言葉だろ?」
タツミ君が調子に乗って、もっと卑猥げな言葉で混ぜ返したら、
「いくら今、社会主義が衰弱しているからッて、社会正義に燃えて戦い続けたセクト
のことを悪く言っちゃァいけないッ」
やや声を荒らげて、正義の言葉を吐き、コダマさんが場の全体を制しました。
そこに突然、ドアが開いて、ひとりの男が入って来ました。
見れば、鮮やかに銀髪を蓄えた、眼光炯々たる初老の紳士です。
「お酒を一杯いただけますかな」
常連一同はおしゃべりを中断し、この闖入者の顔をしげしげと眺めました。
お店の仕事を切り上げ、せっかくリラックスして酒を飲み始めたのに、変な男に邪
魔されて全然嬉しくないコダマさんが、
「はじめての方ですよね。誰の紹介でいらしたのですか」
と、無礼な敬語を使いました。
「紹介がなくては来店できないのですかな。
営業中の札が出ている以上、店は誰に対しても開かれていると僕は解釈したのだが」
この紳士も負けてはいません。
「こんなちっちゃな店は、数人入るといっぱいになってしまうのです。ご覧の通りで
して申し訳ありませんが……」
と、こんどは婉曲に断ると、
「シラカバさんから、あそこは良い店です、と聞いて来たのだが……」
「なんだ、そうでしたか。
シラカバさんの紹介でしたか。
それは、どうも失礼しました。どうぞお入り下さい」
シラカバさんと聞いては、コダマさんも邪険にできません。
シラカバさんは、コダマさんがその人柄を信頼している数少ない人物の一人です。
この夜はこうして、いつもお山の大将でいたいコダマさんが譲歩しましたが、こう
いうことは滅多になく、ちょっと不思議な感じがしました。
シラカバさんのキープしているボトルを出しながら、コダマさんがこの紳士に、
「お仕事関係の方ですか?」
と、尋ねますと、
「いや、彼とは古くからの友人です」
オン・ザ・ロックのグラスを悠然と口へ運びながら、紳士が答えました。
「シラカバ君から独立国のような店がある、と聞いて、僕は興味をもちました」
「独立国だなんて、とんだ過剰評価ですよ。
せいぜい、いいとこ、ちっぽけで閉鎖的な村ってあたりが妥当な線だ」
クコちゃんが嘲り気味に話に割り込むと、コダマさんはふん反り返って、
「この方が独立国と言って下さるのだから、素直にそう思った方がいい。
クコちゃんは『ドンチャ』をけなすことしか考えない」
と、虎の威を仮る狐みたいに威張って言いました。
こうして、カウンターに五、六人並んだものの、この紳士をどう扱ったらよいのか、
コダマさんにも見当が付かず、ちょっと困っている様子です。
それを敏感に察して、タツミ君がクコちゃんに、
「この前、ハンガリーの元書記長が死んだだろう。俺、あれは自殺じゃないかと思う
んだが、クコちゃん、どう思う?」
と、堅い話題をフりました。
「それって、旧共産党のカダルのこと?」
さすがにクコちゃんは、学者ぶるだけあって、こんなことまでよく知っています。
「そう。昔、ハンガリー動乱のとき、その首謀者として処刑された当時のナジ首相が、
今度、名誉回復された直後の死だろう。
これってタイミングが合いすぎるから、きっとこの死は、暗殺か自殺だ。
それで、俺は自殺と考えた」
「暗殺ッて見た方が自然じゃないの?」
「ま、これまでの共産圏の出来事なら、暗殺と見た方が自然だけれど、なにせこの死
んだカダルッて人物はナジ首相の盟友だったんだからな。ソ連の軛をやっと振り解き、
肩の荷が降りたのでほっとして、抹殺した自分の友人達への倫理的責任を果たすため
に自殺したンじゃないか、と俺は考える。
ちょっとロマンチックな見方だけどね」
すると、黙って話を聞いていた銀髪の紳士が、低い声でこう告白したのです。
「僕は若い頃、血みどろの政治闘争の中を生きてきました。あの頃はレッドパージの
時代でしたので、理想を追求するためには地下に潜って活動するしかなかったのです。
権力の犬が僕らの周りに潜り込んでいたので、ずいぶん陰惨な審査を実行したもの
ですよ」
「それでは、リンチによる粛清なんてこともあったのですか?」
深く考えもせずクコちゃんがこう訊きますと、紳士はさらに厳しい顔付きをして、
「それはもちろんです。
犬が内部にいる以上、厳しく査問して追求し、見つけ出せば、後顧の憂いを裁って、
粛清するよりないじゃありませんか」
と言いながら、頬をひくひくと引きつらせました。
「では、あなたは共産主義者だったンだ!」
少し尊敬、という感じの声でコジマさんが叫びますと、
「いや、コミュニストといっても、誤解なきようお願いします。
僕は、ソ連や中国のような国家テロの鬼、あのスターリニストの手合いでは断じて
ありません!
僕は、トロツキーの崇拝者です。
彼が唱えた永久革命を奉じ、そのために僕の人生を賭けたのです」
「なんだ、なんだ。
あなたは共産主義者じゃなくて、トロツキストだったのか!
誉めて、損した!
トロツキストは日和見主義者で裏切り者だから、僕らは信じちゃいけないんだ!」
コダマさんは、“トロツキー”という名前を、敵と同義語だと思っているのです。
「コダマさん、タツミ君は四トロだせ。
何も知らない無知蒙昧なおっさんが、とんだ言い掛かりをつけてる。
こんなこと言ってると、いつか非情なスターリニストどもの餌食にされちゃうぜ」
クコちゃんが口汚く罵ると、
「何だ、何だ。
僕がチンピラってこと、知ってるだろ。
言い掛かりは、僕らの特権だ!
それに、僕ら現場のプロレタリアから見ると、現実はぜんぜん違ってる!
スターリンは、ひどいことをしたかもしれないが、労働者の国家を建設した。
毛沢東は、農民と労働者の国を造った。
この二人の英雄は、資本主義に反対して、僕らに希望を与えてくれた。
クコちゃんみたいなアナーキストから、共産主義の悪口を言われたくない。
僕はあくまで、天安門の弾圧に賛成する。
共産主義国家を転覆しようとする一切の陰謀に与しない!」
コダマさんは、自分のことをけなされたかのように憤激して息巻きました。
すると、件の紳士がもの静かな口調で、
「革命の本質は、抑圧された人々の抑圧者に対する闘争です。
レーニンの革命は、そういう理想の元に遂行されました。
スターリンもレーニンの弟子ですから、その理想に対して忠実でなかったはずがあ
りません。
でも、権力奪取のときの正義が万能の正義である、と思うと大間違いです。それは
たちまち悪へと変質してしまうのです。これは一つの弁証法的な真実なのです」
と、正統左翼の見解を吐露しましたら、コダマさんが、
「僕らは難しいことは分からない。
難しいことは、タツミ君やクコちゃんの専売特許だ。
クコちゃん、こんな紳士に負けないで、ドンチャの力を見せてやれ」
と、変なところに力を入れ、加勢を求めてきましたので、クコちゃんも渋々、コダ
マさんに肩入れして、
「でも、この抽象的理論が未来社会の指標のように崇められたから、モラルのないと
ころにモラルがあると錯覚したまま、変な社会改造へと突っ走ったんでしょ?」
より一層あいまいな言辞を弄しています。
紳士は、クコちゃんの狼狽を見て、にっこり笑い、
「たしかに、ブルジョア・モラルの懐の深さは手強い問題を提起します。
でも、僕達は、いま、その問題に首を突っ込んだら抜けられなくなります。
もっと実践的な、システムの問題について議論しようではありませんか」
横綱が幕下を相手にするように、余裕たっぷりの口調です。
あせったクコちゃんが、チラッとタツミ君の方を見ましたが、飲む方に専念してい
るタツミ君は、代打を勤めてくれそうな気配もなく、クコちゃんは及び腰で、
「シ、システムって、官僚制のことを指しているのですか?」
先生に質問された出来の悪い生徒のようにうろたえて聞き返しますと、紳士は更に
腰を落としてがぶり寄りの構えをとり、
「官僚制とは、ご存じのとおり、あらゆる網の目を社会に張り巡らせ、執行者の責任
を末端にまで細かく微分化し、誰からも真の責任者の存在を見えなくする巧妙無比な
支配システムのことです。
スターリニズムとは、トロツキーが鋭く批判したとおり、一個の特殊な官僚主義の
ことです。
その化身がスターリンだったのです。
システムが一個の人身を有ち、権力を保持するためにその一切を用いた。
つまり、この無責任システムが、社会にある一切を、自分のための供犠にしようと
したのです」
クコちゃんは、ぐうの音も出ません。
どうもこの紳士は、この二十世紀のコミュニズムという巨大な政治思想に対して、
深い怨念を持っているようです。
だが、われらが店主・コダマさんは、この紳士の重量級の意見に全然メげないで、
「ドンチャに役人はいない。
ドンチャはみんなの店だ。
たまには男女関係の掟を守るため、僕が独裁者の役目をすることはある。
でも、ほんとうは民主的なお店なのだ。
変節者のトロツキーを糺弾しよう!
女を独占する奴は許せない。
虐られた男たちよ、団結せよ!」
と、訳の分からぬ気炎を上げました。
件の紳士は、世にも稀なる愚か者を前に、呆然自失の態で、
「村には村の規則がある。僕の言うことは、到底理解されないようだ」
と、小声で呟きました。
コダマさんの援軍で、息を吹き返したクコちゃんが、
「中国共産党の大ボスが、ごく最近こんなことを言ったのを、新聞で読んだ。
…わが中国の歴史的経験が証明している。
独裁の手段で強固な政権をもち、人民に対して民主を実行し、敵に対しては独裁を
実施する。それが、即ち人民民主独裁である。人民民主独裁のもとで、強固な人民政
権は正義であり、決定できないことは何もない……
この講話が、印象に残っている。
コダマさんに最適の思想じゃないか!」
こう言って、蛇足を付け加えますと、
「異議な〜し」
例のコダマさんの、阿呆らしい唱和が出ました。
すると、酔いが回ったらしいタツミ君が、
「もう帰ろうかな。
こんなアホくさい議論につきあってたら、キリがない」
と言って、立ち上がりますと、
「あたしも一緒に…」
ナツメちゃんがタツミ君に同調して、席を立とうとしましたので、
「おい、ナツメ。僕をどうするんだ!」
コダマさんは慌てふためいて、ナツメちゃんを引き止めようとしたのですが、制す
る暇もあらばこそ、タツミ君の後を追ってナツメちゃんは素早く店から飛び出し、夜
の街へと消えて行ったのでした。


↑ どんちゃのサービスは、女性に果物、男共にプロレタリアートな毒舌!?


へ戻る次へ→